2020年12月法話 『生かされて過ぎゆく年にありがとう』(後期)

今年も暮れようとしています。一年にわたり世界中を悩ませてきたコロナ禍も、一時期は収束に向かうかに見えたのですが、まだまだというのが現実です。

さて、今月の「行かされて 過ぎ行く年に ありかとう」という言葉ですが、今年は見る人によってさまざまな思いがわき起こってきたのではないでしょうか。素直に「その通り」と頷ける人もいる反面、「ありがとうなんて言えるのか」と、この言葉から思わず顔を背けたくなったという人もいるかもしれません。むろん、それは今年だけのことではなく、いつの年も人にそういうことがあるのでしょうが、今年は徳にそれが際立っているのではないかと思われます。

コロナ禍が収まるかに見えた時期、それは旅行や外食が盛んに勧められて、明るい光が差してきたような時期、テレビや新聞で報じられていたのは自死者の増加でした。特に、女性は4割増しで、中高生も増えているということでした。女性の場合は雇用や家庭の問題、中高生はオンライン授業導入による格差や家庭の問題などが大きな理由してあげられていました。

光は強くなればなるほど、その影は濃さを増していきます。明るさの裏の闇の中で、もがいてもがいて自ら命を絶っていった人々のことを、私たちは決して忘れてはならないと思います。

今こうして生きていられるのは、言い換えると生きていることに感謝することができるのは、きっと私たちが光の側にいることができるからです。そして、ぬくもりを感じることのできる場を持っているからに相違ありません。

こども園の子どもたちが、礼拝の時に唱和する「四つのお約束」の中に「私たちは、いつもありがとうといいます」とあります。もちろん、感謝の気持ちで「ありがとう」と言えることは、尊く大切なことですが、「ありがとう」と言いたくても、なかなかそう言えない状況にある人が世界中にあふれていることにも心を寄せたいものです。それは、光の側にいる者としての責務と言えるかもしれません。

改めてこの一年を降振り返り、「ありがとう」と言えることが「有り難い」ことであること。それをかみしめたいと思います。そして、自分がなすべきことを、淡々と確実に成し遂げていきたいと思うことです。