2020年6月法話 『日ごとに変わるあじさいの花』(中期)

梅雨時期を彩る風物詩としてすぐに思い浮かぶのが「あじさい」です。漢字では「紫陽花」と書かれたりしますが、これは唐の詩人白居易がライラック(リラ、ムラサキハシドイとも)に付けた名前で、平安時代の学者源順がこの字をあてたことから誤って広まったといわれています。

あじさいは、花の色がよく変わることから「七変化」「八仙花」とも呼ばれていますが、花の色が変わるのは土壌のpH(酸性度)によるもので、一般に「酸性なら青、アルカリ性なら赤」になると言われています。

また、花の色は開花から日を経るに従って徐々に変化し、最初は花に含まれる葉緑素のため薄い黄緑色を帯びていますが、それが分解されていくとともにアントシアニンや補助色素が生合成され、赤や青に色づいていきます。さらに日が経つと有機酸が蓄積されてゆくため、青色の花も赤味を帯びるようになりますが、これは花の老化によるものであ、土壌の変化とは関係なく起こります。

あじさいの花の色が変化していくのは、科学的に分析すれば既述のようなことがその背景にあるということが分りますが、実はこのように変わり続けているのはあじさいの花の色だけではなく、世の中のすべのものが時々刻々と変化し続けているのです。

それを仏教では「諸行無常」といいます。「諸行」とはすべての現象を指します。それが「無常」であるというのはどのようなことかというと、この世のすべての現象は、例えば神の意志のように一切を超越した何ものかによって支配されたり、動かされたりしているのではなく、諸々の原因や条件(縁)によって形作られていて、常に消滅変化してゆくのであって、何ものも永遠不変ではありえないということです。

この「無常」について述べられているのが、近代まで文字を習う時の手習い歌として長く用いられてきた四十七のかな文字を使って作られている「いろは歌」です。

 

いろはにほへと ちりぬるを(色は匂へど 散りぬるを)
わかよたれそ つねならむ (我が世たれぞ常ならむ)
うゐのおくやま けふこえて(有為の奥山 今日越えて)
あさきゆめみし ゑひもせす(浅き夢見じ酔ひもせず)

 

歌を意訳すると、次のようになります。

 

花はどんなに美しく咲いたとしても、やがていつかは必ず散っていくものです。
この世において、たとえ栄華を誇ったとしても、それがいつまでも永遠に続くことなどありえません。
有為転変の迷いの世界を、今日、越えることによって、
浅はかな夢を見ることもなく、迷いの根源である無明の酔いに、もはや酔うということもありません。

 

短い歌の中に、仏教の無常の思想が示されており、仏教の世界観・人生観がみごとに説かれているといえます。それは、この歌が『涅槃経』の中の「無常偈」として知られている「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」を説き明かしているといわれているからです。この「無常偈」は、「羅刹と雪山童子」の物語として、お釈迦さまの過去世の姿を示す説話として伝えられています。

昔、雪山(ヒマラヤ)に雪山童子と呼ばれる求道者がいました。彼は衆生利益のために、あらゆる苦行を修めていました。帝釈天は、童子の懸命な求道の姿を見て、その決意を試すために恐ろしい羅刹(鬼)に姿を変えて、童子の前に現れました。

そして、過去世の仏が説かれた偈文の前半部分の「諸行は無常なり、是れ生滅の法なり(この世の一切は無常であって、すべては一瞬として留まることなく流れている。生あれば必ず滅がある。これが一切の法を貫く真理である)」と唱えました。

これを聞いた雪山童子は大いに喜び、この教えこそが自分が求めてきた真理だと気付きました。そこで、童子は羅刹に向かい、「どうか残りの偈文を教えてください」と懇願します。ところが、人の血と肉を食べて生きる羅刹は、「自分は今、空腹のために心を乱しているので、童子の願いを聞く耳を持っていない」と冷たく言い放ちます。それに対して童子は、「自分の肉体をあなたに差し上げますから、どうか教えてください」と言い、合掌して跪きました。

羅刹は、雪山童子の決意が揺るぎないものだということを知り、後半部分の「生滅を滅し已りて 寂滅を楽と為す(生にも滅にも惑わされない縁起の法を知り、生滅を滅しさることによって、心の迷いの一切が破れ、永遠に迷うことのない完全なる寂滅を楽しむことができる)」を説き、その後、羅刹は約束通り童子に肉体を求めました。

真実の喜びを得た雪山童子は、この偈文を他の人々に伝え残すために、周辺の石や壁、道や樹木に書き記し、羅刹との約束を果たすため、高い木に登って地上へと身を投げました。すると、羅刹は帝釈天の姿に戻り、空中で童子の体を受け止めると、地上に置きました。

経典には、この雪山童子こそ、後世のお釈迦さまだと記されています。この物語を通して、真理の法に出遇うことは、まさに命がけであり、いかに難しく希有なことであるかということが知られます。

そして、お釈迦さまのご苦労によって明らかになった、世のすべてのものは一瞬として留まることはなく、何ものも永遠不変ではないという「諸行無常」の真理。

その真理は、世の中のものをただ漠然と見ているだけでは到底気付き得ないのですが、お釈迦さまによって既に明らかされ、教えられているからこそ、「凡夫」といわれる私たちのような者でもあっても、日ごとに色の変わっていくあじさいの花を見ると、そこに「諸行無常」の教えを味わうことができるのだと思うことです。