先日、庭に落ち葉がたくさんあったので、掃除をしました。ほうきで掃いて集めて、ちり置き場に持っていき、一通り終わると庭がきれいになって、気持ちが良くなりました。掃除は面倒臭いですが、終わってみるとやって良かったとなります。
掃除と言えば、学生の時は、毎日掃除の時間がありました。15分ほどだったと思いますが、教室、廊下、トイレなど、みんなが使うところをみんなで掃除していました。日本ではほぼ当たり前に行われている学生の掃除ですが、実は世界的には珍しいそうで、ほとんどの国は清掃員に任せているそうです。「学生の本分は勉学」ということで、それ以外の事は専門の人に任せるという事なのかもしれません。それはそれで大事な考え方だと思いますし、色んな価値観があるので良い、悪いはないと思いますが、掃除をすること自体はとても大切な事のように思います。
お釈迦さまの弟子に、掃除をして悟りを開いた人がおられます。周利槃特(しゅりはんどく)という人です。この方は、物を覚えることがとても苦手だったそうで、自分の名前すら覚えられず、名前を記したお札を首から下げていたといいます。そんなありさまですから、お釈迦さまの説法を聞いてもなかなか理解することが出来ず、丁寧に教えられてもすぐに忘れてしまうのだそうです。そのため、自身の愚かさを痛感した周利槃特は仏弟子を辞めようとしたのですが、お釈迦さまに引き止められます。そして「自分を愚かだと分かっているものは、愚かではない」と諭され、思い留まったといいます。
お釈迦さまは周利槃特に一本のほうきを渡し、「塵を払い、垢を除かん」という言葉を与えられました。
周利槃特は言われた通り、ほうきを使って「塵を払い、垢を除かん」とつぶやきながら掃き続けました。その姿を周りの人々は最初バカにして見ていましたが、黙って何年も続けている周利槃特に心を動かされ、認めるようになります。ある日、いつも通りに掃除をしていた周利槃特は、きれいにした所を子どもたちに汚されてしまいます。思わず「きれいにしたのにどうして汚すんだ!」と怒ってしまいますが、このときあることに気付かされたと言います。それは、掃除をすべきは、まさに自分の心であることに。それから周利槃特は、仏さまの教えを理解するようになり、悟りを得たと言われます。
この話は、掃除という事を通して、仏道者のあり方を示しているように思います。掃除というのはゴミやほこりで散らかった状態をきれいにする事です。これは、ゴミやほこりが散らかっているということが最初にあり、掃除をしてきれいにしますが、そこで終わりではなく、また散らかってしまいます。そこで、また掃除をして、きれいにして、汚れていく、これを繰り返します。
そうすると、掃除とは散らかる事ときれいにする事の繰り返しの中にあると言えます。この循環ともいえること、どちらにも偏らず、両方が存在していることを認めることが大事ということかもしれません。私たちの心にも「煩悩」と呼ばれるチリやほこりに似たむさぼり、怒りの種があるといいます。この煩悩の心を中々認めようとしないのが私の相のように思います。
庭を汚した子ども達に怒りをあらわにする私の相です。汚れを認め、掃除することの大切さを認めた上は(煩悩を認める)、むさぼりや怒りとは違った行動や言葉が生まれてくるのかもしれないと思わされます。もうすぐ夏がやってきます。大雨や台風で庭が大変な事になると思いますが、ほうきを持って掃除を頑張ろうと思います。