2022年1月法話『私を照らすみ仏の光あり』(中期)

中国では、外国の言葉に対して音写と意訳という二通りの対応をします。音写というのは、漢字の中から発音の似ている字をあてるもので、例えば「可口可楽」と書かれていると何のことかわかりませんが、これは「コカ・コーラ」のことです。この場合、文字には特に意味はありませんが、中国語で発音すると「コカ・コーラ」に聞こえるそうです。

経典を漢訳する場合も、こういった音写の手法と、その言葉の意味を漢訳した意訳が混在して用いられているのですが、「南無阿弥陀仏」は音写なので、文字そのものに意味はありません。「帰命尽十方無碍光如来」あるいは「南無不可思議光如来」「帰命無量寿如来」などが意訳です。

親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の意味を明らかにしようとされる中で、意訳の中から「尽十方無碍光如来」をとりあげ、『尊号真像銘文』において、次のような解釈を施しておられます。

 

尽十方無碍光如来とまうすは、すなわち阿弥陀如来なり。この如来は光明なり。
尽十方というは、尽くすという、ことごとくという。十方世界をつくして、ことごとくみちたまえるなり。
無碍というは、さわることなしとなり。さわることなしともうすは、衆生の煩悩悪業にさえられざるなり。
光如来ともうすは阿弥陀仏なり。この如来はすなわち不可思議光仏ともうす。この如来は智慧のかたちなり。
十方微塵刹土にみちたまえるなりとしるべしとなり。

 

親鸞聖人は、「尽十方無碍光如来」について、「尽十方というは」「無碍というは」「光如来ともうすは」と、三つの言葉に分けて、その意味をあきらかにしておられます。ここで「尽十方・無碍・光如来」という区切り方をしておられるのですが、「尽十方・無碍光・如来」と分けるのが、一般的な仕方なのではないかと思われます。では、どうして親鸞聖人はあえてそのような区切り方をされたのでしょうか。

この中で注意をひくのは、「光如来」という読み方です。これは、「尽十方」・「無碍」という言葉に「光」の字をつけてはならないということではなく、南無阿弥陀仏とは「尽十方なる光如来」であり、「無碍なる光如来」だということを明らかにしようされたからです。それは、「光如来ともうすは阿弥陀仏なり」という解釈からも知ることができます。

では、「光如来とは阿弥陀仏なり」とはどのようなことかというと、それはとりもなおさず「阿弥陀仏という仏さまは光の仏さまだ」ということです。ところが、普通私たちは「光の仏さま」と聞くと、例えば灯台のように、先ず阿弥陀仏という存在があって、その仏さまが周囲に光を放っておられるというすがたをイメージするのではないかと思われます。けれども、ここで親鸞聖人が明らかにしようとしておられるのは、阿弥陀仏という仏さまは光のはたらきの他に本質があるのではなく、光のほかに阿弥陀仏という存在はないということで、阿弥陀仏とは光のはたらきそのものだということだといえます。

一般に、仏であるかぎりその身には光があるのですが、それは讃嘆・供養など、仏としての徳を成就したすがたとして自然と備わったものです。けれども、阿弥陀仏というのは、「私の光に限りがあって、よく照らすことのできないところがあるようならば、私は仏にはなりません」という願の成就した名なのです。それは、あらゆる世界(尽十方)、あらゆる存在(無碍)をすべて存在せしめる光として、わが光を成就しようという名のりです。

親鸞聖人は『讃阿弥陀仏偈和讃』において

弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり 法身の光輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり

と讃えられていますが、まさに「法身の光輪きわもなく」ということのほかに「弥陀成仏」ということはないのです。十方をことごとくおおい尽くし、何ものにもさまたげられることなく、あらゆるもの、あらゆる場の上に等しく法の徳を成就する光明、それが阿弥陀仏そのものなのです。

ところが、私たちはそのようなことを聞いても、すぐに納得することはできないのではないかと思われます。デカルトの有名な言葉に「我思う、故に我あり」というのがあります。この言葉の通り、私たちは生きることの根本に、常に「我思う」ということを置いています。そのため、自分以外のすべてのものを疑うということがあったとして、疑っている自分や、あれこれ思いをめぐらしている自身に対しては、決して疑うことをしません。そして、そのような「思い」をもって、自分以外の周囲のすべてのものをとらえ、見ようとしているのです。

つまり、まず「私」というものがあり、生きていくことの中心にその「私」を置き、さらにその「私」というところから、周りの人やものごとを見ていくのです。したがって、「光のはたらき」ということを聞いても、せいぜい実感できるのは電灯の明かりぐらいのものです。では、親鸞聖人が説かれる「光のはたらき」とはどのようなことなのでしょうか。

親鸞聖人は『御消息』の中で、「無碍光仏は光明なり、智慧なり。この智慧はすなわち阿弥陀仏」と示しておられます。光明としての智慧とは、言い換えると仏の智慧は光明をもってあらわされということですが、それはなぜかというと、私たちの迷いの心をしばしば闇にたとえますが、その闇を破るものは光に他ならないからです。

そうすると、仏法の智慧が光で表されることの意味は、私たち一人一人に抜きがたくある所の自分の体験への執着そのものを破るはたらきがあるからです。仏法の智慧というのは、あれも知っているこれも知っているということではなく、まわりがあるがままにはっきりと見えてくるということです。この場合、見えてくるというと、何となくまわりの景色が見えることのように錯覚してしまうのですが、そうではなく、それが事実である限り、たとえ自分にとって不都合なことであっても、事実を事実として受け止め、引き受けて生きていくことができるということです。

このような意味で、私たちは真の意味の光のない生活にあっては、自分自身のすがたが見えないままに、闇の中であたかも手探りをするようなあり方に終始せざるを得ないことになります。

しかしながら「私を照らすみ仏の光あり」といわれるように、既に私を照らす阿弥陀仏の光が私を包み込んでいるといわれます。では、どのようにしてそのことを知ることができるのでしょうか。

「尽十方」というのは、東西南北、上下四維、世界中のすべてということですが、それを知るためには、世界中をかけ回って確かめる必要はありません。そのようなことをしなくても、光からいちばん遠いところ、普通の光なら決して届くとはずのないところを、その光が照らしていることを証すればよいのです。それは、光から最も遠い存在である「罪悪深重の凡夫」の上に光が成就していることを証すればよいということです。

仏法は鏡にたとえられますが、聴けば聴くほどに、学べば学ぶほどに、私のすがたをあるがままに映し出し、その愚かさを知らしめてくれます。まさに、仏法からもっとも遠い存在としての自分を見出することになるのですが、そこに生じるのは、悲嘆だけではなく、そのような私がすでに光のうちに包まれているという歓喜の心です。この歓喜の心の内実には、このような私を照らしてもらえるはずがないという懺悔と、そうであるにもかかわらず私は阿弥陀仏の光に照らされているという讃嘆の二つの思いです。

「一生を尽くしてでも出会わなければならない、ただ一人の人がいる。それは私自身」といわれますが、その私自身に出会わせるものこそ、私を包みこんで照らすみ仏の光であり、その光のはたらきは仏法を聴くことを通し、自らのすがたを知ることによってのみ感じることができます。