てばなすこと

先日車を走らせながらラジオを聞いていたら、「お寺と神社の違い」のことが話題になっていました。「どんなことをいうのかな」と思って聞いていると、その日は「お賽銭」がテーマでした。

そのラジオ番組での説明によると、神社で入れるお賽銭は「神様への捧げもの」で、お寺で入れるお賽銭は「一種の修行(お布施)」とのことでした。お寺でお賽銭を入れる行為は、ある種の自分の欲を捨てる、自分の物を手ばなすという意味で「修行」なのだそうです。「なるほど」と思いました。執着から離れていく、一つ煩悩を捨てるというイメージにもつながります。そういえば、神社ではお賽銭を投げ入れた後、手を合わせている人が多い気がします。たまに、お寺でもいらっしゃいますが…。

お金に限らず、私たちはなかなか自分の手にしているものを「手ばなしたくない生き物」ではないでしょうか。幼い子どもでしたら、おもちゃやお菓子、お母さんを離したくないということもあります。だんだん大きくなると、お金を筆頭に地位や名誉・肩書…、なかなか手ばなせないものが増えてくるかもしれません。そんな大きなことでなくとも、自分で買った洋服さえも手ばなすのに苦労します。家の中に使っていないものありませんか? いつか使おうととっておいたものがあふれていませんか?

モノでなくとも、思い込みやなぜかやってしまう癖、そのことで自分自身を苦しめてしまうこともあります。これらが心の中にあふれてしまい、心が整理できなくなることもあります。

上手く「手ばなす」には、まず自分が握りしめているモノに気づくことではないでしょうか。自分の生活の中で捨てにくいもの、出しにくいものありませんか。これは人によって違うと思うのですが、私は小さい頃大切に取っておいたものをごみと間違われて捨てられてしまったことがあります。私の握りしめているものは、他人から見ると「そんなもの?」というようなものなのかもしれません。

春、新しい旅立ちの季節です。自分の握りしめているモノを一つでも手ばなしてみましょう!

新しい発見があるかもしれませんよ。それはそうと、プーチンさん、あなたの握りしめているモノ、いつになったら手ばなしますか?

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。