遺教に立つ

仏教では、人の死を「遺教(ゆいきょう)」という言い方をします。「遺された教え」ということですが、すぐには理解し難い気がする人もいるかもしれません。なぜなら、一般に「教え」というと、言葉によって書かれたものを思い起こしますが、「死」は言葉なきもの、絶対の沈黙だからです。にもかかわらず、どうしてそれを「教え」というのでしょうか。

私たちは、生まれた以上、いつか必ず死んでいかなくてはならないことは誰もが知っていますが、それはあまりにも漠然としている上に、生まれてこの方、一度も経験したこともないので、心の奥底では「他の人は死ぬかもしれないが、自分だけはまだ当分大丈夫に違いない」という期待感を持ちながら日々を過ごしています。

また、テレビや新聞、ネットなどで日々、戦争や災害、不慮の事故、感染症などで亡くなられた方のことが報じられますが、たとえ何十人、何百人、何千人、何万人の方が亡くなられたとしても、それが数字だけで語られていたり、あるいは名前が伝えられたとしても、存じ上げない方ばかりだと、驚いたり時には胸を痛めたりするということはあっても、その夜、食事が喉を通らなかったり、眠れなかったりするということはありません。

けれども、たとえたった一人の人の死であったとしても、それが大切な人、愛する人、ご縁深い人であったりすると、私たちの心は大きく揺れ動き、この上なく深い悲しみに包まれます。

一昨年の五月に父、そして今年の三月に母が亡くなりました。父は享年九十六、母は享年九十でした。父は、脱水症状をきっかけに入院し、やがて歩行が困難になりました。そのため、退院後は本人の希望で、老人福祉施設でお世話になっていました。入院したのは令和元年の十二月上旬、退院は翌ニ年の三月上旬でした。入院直後から二月末までは、まだ面会が可能だったので、毎日見舞いに行って父と語り合うことができていました。ところが、三月からは新型コロナウイルスの感染拡大の影響で突然「面会禁止」となり、以後父に会えたのは退院後、老健施設に入所するとき、老健施設から福祉施設に移ったときだけでした。福祉施設は当初「県内での感染者が出るまでは…」との条件付きで面会することができていたのですが、施設に入って間もなく県内第一号の感染者が出たため、再び会えなくなってしまいました。

その時すぐに思いつけばよかったのですが、五月になってから父に携帯電話を届けることにしました。ただし、父はだいぶ視力が低下していて、以前のように自分から発信することができなくなっていたので、先ず施設に電話して「これから父の携帯にかけますので…」と、施設の方に取次をお願いし、受信した携帯を父に渡してもらうという形をとりました。弟妹や子どもたちにも父の携帯電話の番号を教えたので、それぞれが電話をすると、その都度施設の方を煩わせることになり、「私的なことなのに度々では申し訳ない」との思いから、頻繁に電話をすることにはためらいがありました。ただ、亡くなったのが携帯電話を届けてから二週間余りだったこともあり、電話で話せたのは携帯電話を届けた直後を入れてたったの二回だけでした。

亡くなる一週間ほど前に施設から、父が発熱したという連絡がありましたが、入院している時にも何度かそういうことがあり、点滴をすると間もなく平熱に戻っていたので、コロナ禍の最中ということもあり、施設から病院に移すより点滴をして様子を見てもらうようお願いしました。その後、施設にタオル等を届けにいった際、職員の方に様子を聞くと、「熱も下がり点滴もはずれ、食欲もあって元気です」とのことでした。

それを聞いて安堵した翌々日の深夜、携帯電話の呼び出し音に起こされ画面を見ると施設からでした。「何かありましたか」と尋ねると、「お父さまが息をしておられません」とのこと。慌ててかけつけると、「先ほどまで話をしておられたのですが…」とのことで、まるで父は眠っているかのようでした。間もなく施設のかかりつけの先生が来られ、「老衰」と診断されました。

いつか別離の瞬間が来ることは漠然と感じていたものの、そのあまりの突然さにただただ戸惑うばかりでした。

一方は、母も歩行が困難になったため一昨年の秋から施設でお世話になっていたのですが、三月の中旬、「胸が苦しい」とのことで病院に行ったところ、そのまま一週間の検査入院をすることになりました。ところが、一週間を経ても退院することはできず、コロナウイルスの感染が拡大していることもあり、面会さえできない状態が続いていました。ところが、病院から「子ども(私・妹・弟)だけは、1日15分なら面会を許可します」との連絡があり、その日早速会いにいきました。けれども、母は酸素吸入を施され、意識はありませんでした。看護師さんに病状を尋ねると「10Lの酸素吸入をしている」とのことで、医師をしている弟に伝えると、「それは最大量だよ。そこまでの量だと、今月いっぱいはもたないかも…」とのことでした。

そして、翌日の朝、見舞いに行った弟から「今日か明日かもしれない」と報告がありました。父の時は、あまりにも

「突然」のことだったので、今回は福岡市・鹿児島市・京都市にいる三人子どもたちにも逐次母の状況を伝えました。そうすることで、少しずつ「その瞬間」が来ることへの覚悟をする時間を持つことができたように思います。

見舞いに要った翌々の早朝、病院から「思わしくない」との連絡があり、その後、少しは持ち直したものの、昼前に

もう一度連絡があり、病室に着いた時には既に亡くなっていました。息を引き取る瞬間には立ち会えなかったものの、自分なりに覚悟をしていたこともあり、父の時よりも幾分冷静に受け止めることができました。

父も母も、その人生の最期に、自らのいのちの終わりゆくすがたを通して、「いのちが終わるとはこういうことだ」「人生とはこういうものなのだ」ということを教えてくれのだと受け止めています。

火葬場では、後継住職となる長男と向かい合わせで拾骨をしました。祖母の拾骨の時には、私が立っている位置に父が立ち、長男が立っている位置に自分が立っていました。そして、父と母の拾骨の時には、かつて父が立った位置に私が立ち、私が立っていた位置に長男が立ちました。

母の葬儀は四月一日ということで、火葬場に植えられている桜は満開でした。帰宅する際、風に舞う桜の花びらを眺めながら「散る桜 残る桜も 散る桜」という句を思い浮かべていました。

いろいろなことに追われるような日々を過ごしていると、つい目の前のことを終えることに汲々として、気がつけば一日が、一週間が、一月が、そして一年が過ぎていくようなありさまです。そして、何度もご門徒の方の葬儀を勤めているにもかかわらず、「他の人は亡くなるかもしれないが、自分だけは大丈夫だ」というような思いの中で日々を過ごしていたりもします。そのような私に、父と母は自らのいのちの終わりゆくすがたを通して、「遺教」を示してくれました。大切に受け止めて、これからの日々の糧としたいと思います。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。