「なんでもない」ほど、難しい

兼好法師(吉田兼好)が著わした『徒然草』という随筆の中に「高名の木登り」という段(第109段)があります。現代語訳すると、次のような内容です。

木登り名人と世間でいわれている男が、人を指図して、高い木に登らせて、木の枝を切らせた時に、非常に危なそうに見られた間は何も言わないで、おりる時に、家の軒の高さくらいになって、「間違いをするな。気をつけておりろ」と言葉をかけました。

そこで、その光景を見ていた人が「これくらいの高さになら、飛び降りてしまうこともできるだろう。どうしてそのようなことを言うのか」と申しましたところ、「そこでございます。高いところで目がまわり、枝が折れそうで危ないときは、自分自身が恐れていますから、気をつけるようになどとは申しません。過ちというものは、やさしいところになってから、必ずしでかすものでございます」と答えました。

いやしい下層の者ですが、その言葉は聖人の戒めにもあてはまるものです。

蹴鞠(けまり)もむずかしく落としそうなところをうまく蹴りだした後、もう安心と思うと、必ず蹴り損じて鞠が落ちると、その道の教えにございますようです。

この逸話は、高校生の時、古文の授業で読んだのですが、とても印象に残ったことを覚えています。確かに、日常生活の中でも、自分が気を張りつめて行っている時には、事故などめったに起きないものですが、ほっとしたり、「もう大丈夫」と安心して気を許したりした時に、なぜか予期せぬことが、しかも突然起こったりするものです。

今夏、園長を務めるこども園の盆踊りを催したときのことです。事前に、私の軽自動車で、かき氷に使う氷を職員と一緒に買い求めに行くのですが、氷を入れる発泡スチロールを後部座席に積み込み、準備を整えていざ園の通用門を左折しようとした際、左後方からこれまで耳にしたことのない異様で大きな音が聞こえてきました。わずか数秒足らずのことで、始めは何の音なのかよくわからなかったのですが、何とその異音の正体は、私の運転する車の左側ドア後方から後部ライトにかけての部分が門柱の角と接触しながら通過した時の音なのでした。その異様な音を聞いて、園内で準備をしていた職員が驚いて一斉に集まってきたので、かなり大きな音だったのではないかと思います。

これまで、盆踊りの時だけでなく、運動会の荷物の出し入れや、その他、様々な物の出し入れで三十年以上に渡って何事もなく通過してきた箇所なので、異音を耳にした瞬間は、まさか自分の運転する車を門柱にこすっているなどとは、まったく思いもしませんでした。さすがに、「目を閉じていても通過することができる」とまでは言わなくても、さほど広くはない箇所ではあるものの、軽自動車ということもあり、これまで一度もぶつける不安を感じながら通ったことなどありませんでした。

ところが、運転席を降りて異音のした箇所を確かめに行くと、左側後部のドアは大きな傷があっただけでなく、大きく凹んでしまっている箇所もありました。また、窓ガラスにも横一線に数本の傷があり、後部ライトは一部が破損していました。早速、自動車会社の担当者に連絡して、修理のため引き取りに来てもらったのですが、後日連絡があり、「修理にかかる期間は二週間ほど(実際は、三週間ほどかかりました)になります」とのことでした。まさに一瞬の出来事だったのですが、ふとした気のゆるみが、人間でいえば「重症のため入院」という結果を招いたのでした。

さて、「なんでもない」というのは、「取り立てて問題にするほどではない」とか「たいしたことはない」という意味ですが、日々いろんなことが、しかも不意に起きたりするので、振り返ると「なんでもなかった」という日は、あまりないのかもしれません。とはいえ、よほどのことがないかぎり、私たちはいろんなことに追われて生きているので、それらは新たに起きたことなどによって記憶が上書きされてしまい、気にもとめなくなってしまうように思われます。

ときに、私が園長を務めているこども園で給食を調理してくださる先生方は、特に衛生面には格段の注意を払っておられます。目には見えない細菌やウイルスなどが相手ですから、相当気を使っておられることと思われます。そういうご苦労をされながら、常に当たり前のように子ども達に栄養価を考えたおいしい給食を出し続けてくださっているそのすがたには、深い敬意と感謝の念を禁じ得ません。同じように、日々いたるところで、多くの方々が、自らがかかわっている事柄に対して、真摯に向き合い、まるで当たり前のことのようにその成果を表しておられることと思います。

とはいえ、この「当たり前のことのように」を続けるのは、とても大変なことです。なぜなら、例えば給食の場合、ひとたび食中毒などが発生すると、それまでの努力が一瞬にして水泡に帰してしまうからです。「栄養価を考え安全でおいしい」ということが、給食では当たり前のことのように思われているので、それを続けていくのは当然のことのようにみなされます。その一方、食中毒のように一つ間違えば命の危険を脅かすようなことに繋がる失敗を犯すと、決して許されない事柄だとして強く非難されます。このように、栄養価を考え安全でおいしい給食を作り続けていることにはあまり光が当たらず、失敗すると猛批判にさらされることになるのですから、一瞬たりとも気を抜くことは許されません。そのため、常に緊張感をもってお仕事に臨んでおられるのですが、それを持続するのはとても大変なことと思われます。

私たちは、慣れてくると、つい気が緩んでとんでもない失敗をしてしまうことがあります。そういう点で、『徒然草』の高名の木登りの逸話は、とても大切なことを教えてくれているように思います。なぜなら「なんでもないこと」を当たり前のように続けることほど、難しいことはないと思うからです。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。