親鸞聖人がいわれる悪とは、このような自分ひとりが正しいとする自己中心性をとらえられたものです。
そうしますと、人間の自我というものを否定しない、仏教以外の教えは、表面的にはどれほど人々に善の姿をみせているとしても、究極的にはその善の中に悪を生み出す構造をもっているのです。
それゆえに、この教えは「偽」であるといわれるのです。
人間の自我を否定せず、永遠の生を願う人間の欲望に迎合する教えは、どれほど人の耳にやさしく響くものであっても、結局は人間を破滅に導くものでしかありません。
この自己中心性が悪であるということは、卑近な例では、夫婦の間における争い、会社や同族のいざこざにおいても見られるもので、私たちはいかなる場合でも、常に自分を中心に置いて判断を下しているのです。
したがって、何か誤りがおこれば、間違っているのはいつも相手の方であると考えてしまうのではないでしょうか。
そうしますと、人間の世界には、迷いに属する人間と悟りに属する人間、という二種をみることになるのですが、いま迷っている人間は「悪を好む」といわれるのは、何も常に意図的に悪いことをしているというのではなく、自分自身の思いとしては、一生懸命に善をしているのですが、その善意が本当の意味での無常とか、無我とかを知らないために、善がそのままかえって悪を好むすがたになっているということなのです。