親鸞聖人に、次のような言葉があります。
『誠に知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと』
これは煩悩具足の凡夫である限り、愛欲の広海と名利の太山の渦巻きの中に自分はいるしかないのだということです。
そのような思いは臨終の一念にまで消えることはない。
そうであれば、人間の悲しみというものは無限に続くものであるといってもよいのです。
しかし、そうであるにもかかわらず、親鸞聖人にはこの自分を摂取してくださる法の前にいるという喜びがあるのです。
同じ親鸞聖人の口から語られている、次の言葉がそれです。
『慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に遇ひ難くして、今遇うことを得たり。
聞き難くして已に聞くことを得たり』
法に自分が出遇っているという、無限の慶びがいつも自分の心に溢れているのです。
そういう喜びを持つことが、難思議往生の世界なのです。
それは、もはや思議を超えたものであるのです。
これは、信じられないものを、無理矢理に信じようとする窮屈な信ではありません。
そうではなく、自然に法が自分の心の中に現れてくる、その不可思議さを味わう世界なのです。
それは、不可思議なる法に、自分が生かされている姿だともいえます。
このように、親鸞聖人の思想とは、自分の中に仏性があるからといって、修行して仏になろうとするものではありません。
また、はるか彼方にある無限の仏力を求め、それを無理に信じようとすることとも、全く無縁だといわねばなりません。
それでいて「真仏土巻」に明らかなように、一切が空であり、一切が無であるという仏教の本質と全く重なっているのです。
そして、親鸞聖人はその真仏土への往生を問題にされるのです。
それは現在における往生ということではありません。
また未来における往生ということでもないです。
そういう見方を超えて、いま真の世界に生かされているという心が、親鸞聖人の教えの中心問題なのです。
そのために、自分達が先ずすべきことは、真実の教えに出遇うことであり、自分自身に法の真実が明らかになることなのです。