「念仏の教えと現代」12月(中期)

では、老と病と死は、科学が目指すように本当に明るくとらえることができるのでしょうか。

実際には、科学が発達している今日でも、やはり老病死は嫌なもので、怖くて寂しいものです。

人間にとって、一番みじめで痛ましいことは、若さが失われて老いさらばえていくことであり、どうしようもない病にかかり、そして最後に孤独な死という場面にひとり立たされることです。

そうだとすれば、バラ色のように見える人生において、依然として人間には言い表しようのないみじめさが残っているといわざるを得ません。

ただし、臨終のときの惨めさは、古代から最大の問題であったことは確かで、現代の人々同様、いつの時代でも人々は常にその怖さからいかに逃れるかということを必死に探し求めてきました。

では仏教においては、臨終の迎え方をどのように人々に教えてきたのでしょうか。

人間にとって、臨終が最も大切だということを教えました。

そして、その最も素晴らしい臨終というのは、まさに亡くなるその瞬間なのですが、その臨終の時に心が静かであって、しかもそこで仏さまに迎えられて浄土に往生していくことだとされたのです。

このような死が古代の人々の理想であったとしますと、現代の私たちの理想は、老いの中でも非常に楽しい生活が出来て、病にかかっても安らかで心地よい治療が受けられ、そして安らかな死を迎えることだということになります。

さてここで、親鸞聖人の臨終の見方はどうであったか、ということになります。

親鸞聖人の臨終観の大きな特徴は、臨終のやすらかさということを徹底的に否定されたことにあるといえます。

これは臨終における仏の来迎を否定した親鸞思想と重なることになります。

私たち、一人ひとりは誰もが最終的には臨終を迎えることになるのですが、それがどのような状態であるかは、実際は全く分からないことです。

その臨終を安らかに迎えることが出来るということは、人によってはあるかもしれませんが、これは非常に稀なことだといえるように思います。

したがって、私たち一般の者が、普通受けいれなければならない死は、そういう稀な状態ではなく、大半はみじめな死を迎えざるを得ないというのが、偽らざる人間の姿だということになります。