当時およびそれ以降に著された日記や物語類をひもとくと、そこにはしばしば悲嘆の思いも深く
「末法」
の語が記されています。
たとえば
「扶桑(ふそう)略記」
の末法元年正月二六日の条には、
「今年始めて末法に入る」
とあり、参議藤原資房の日記
「春記(しゅんき)」
の同月二五日の条には、長谷寺(はせでら)の消失に触れて
「末法の最年、このこと有り」
とみえます。
当時の人々、とりわけ貴族層は、何か悪いことが起こると、それはすべて末法到来のせいだと受け止めました。
そのような神経過敏な人々の心に甚大な衝撃を与えた最初の事件は、おそらく東北地方に生じた大規模な戦乱、前九年の役だったと思われます。
前九年の役は、末法六年の前の年に芽吹き、その六年後、泥沼のような戦闘に突入して、京都朝廷の支配力の弱体化をまざまざと露呈しました。
王朝体制の零落は、その後も加速度的に進み、貴族層を無力感の袋小路に追い込みました。
彼らにとっては、十二世紀に入り、南都北嶺の僧兵が神輿をかついで京都に乱入する強訴(ごうそ)が頻発するようになったのも、末法の表れに他なりませんでした。
それに、彼らがかつて
「犬よ地下(じげ)よ」
と卑しめてきた武士階層が休息に台頭して来たことも、やはり末法の世の到来と映りました。
武士の実力は、保元元年(一一五六)に生じた保元の乱においてあからさまに発揮され、それ以後貴族と武士の勢力関係は次第に逆転し始めます。
「(保元の乱を境に)日本国の乱逆といふことはをこりて後、むさ(武者)の世になりけるなり」
とは、超一流の貴族出身の僧慈円(じえん)が、自著の史論書
「愚管抄」
に書きつけた慨嘆の言葉です。
この時にあたり、武士勢力の先頭に立って貴族支配の壁に風穴をあけようと努めたのは源平の二氏ですが、保元の乱の三年後に生じた平治の乱の勝敗が両氏の明暗を分けました。
敗れた源氏の棟梁、義朝は部下の反逆にあって殺され、勝利を得た平氏の棟梁、清盛は武士として始めて公卿の座に座ります。
それからというもの、清盛はめざましいスピードで権勢の階段を駆け上がり、仁安二年(一一六七)、ついに人臣の極位である太政大臣に任じられます。
これによって、武士の牛耳る政権、すなわち平氏政権が成立したのです。