ばたばたと、廊下を走ってきて、
「性善坊」
範宴が、部屋をのぞいた。
「はい」
「お師さまのおゆるしがでた。
明日は、早う立つぞ。
脚絆や、笠の支度をしてたも」
「どこへ、お立ちでございますな」
「そなた、知らぬのか。お師さまは叡山の座主におなりなされたのではないか」
「それは、存じてまいすが」
「だから、わしも、叡山へ登って、苦行と学問をするのだ」
「ははは」
「なにを笑う?」
「お得度を受けたことでも、お師の僧正さまは、天台の宗規を破ったとか、横暴だとか、世間からも中務省の役人からも、非難されているのですから、とても、叡山などへ、範宴さまを、お連れくださるわけはありません」
「だって、ゆるすと仰っしゃった。仏につかえる師の君が、嘘を仰っしゃるはずはない」
「でも、だめでございます。まだ、九歳のお弟子に、登岳をおゆるしになるはずがあるものですか」
性善坊は、ほんとにしないのである。
山の苦行にたえられるはずもなし、山の掟(おきて)というものは、町の寺院とはちがって、峻厳(しゅんげん)にして犯すべからざるものであるから、それを破っては、座主として、一山の示しもつかないというのである。
「そうかしら?」
範宴は、不安になった。
寝床へ入っても、範宴は、眼をぱちぱちさせていた。
夜半(よなか)ごろから、窓の小障子に、さらさらと雪のさわる音がしていた。
範宴は、起きだして、そっと庫裡(くり)の方へあるいて行った。
雨戸のない濡れ縁には、雪がまるく溜まっていた。
慈円僧正は、未明のうちに、脚絆をつけて身支度を済ましていた。
供について行く者と、後に残って見送る者とが、山門の両側に並んで、列を作っていた。
夜来の雪は、明け方にかけて、風を加えて降りしきっている。
僧正は、笠のふちに手をかけて、
「さらば――」
と、一同へ訣別(わかれ)を告げた。
三人の弟子は、かいがいしく身をかためて、師僧の供について歩きだした。
いると、山門を降りた所の木陰から、思いがけない範宴が、藁沓(わらぐつ)をはき、竹の杖を持って、ふいに横から出て、供の僧のいちばん後に尾(つ)いてあるきだした。
弟子僧たちは驚いて、
「おや、おまえは、どこへ行くつもりだね?」
「叡山へ、お供して参ります」
「冗談じゃない。
叡山というところは、お小僧なぞの行けるところではなし、また、掟として、年端(としは)もゆかぬ者や、入室して、半年や一年にしかにならぬ者の登岳はゆるされぬ」
「でも、参ります」
「叱られるぞよ」
「叱られても参ります」
「帰れ」
「こいつ、剛情なやつ」
と、弟子僧たちが、止めているのを、振りかえって、慈円僧正は、困り顔をしながらも、苦笑をうかべて、眺めていた。
範宴は、弟子僧たちの間を、くぐり抜けてきて、師の袂(たもと)をつかまえて、訴えるような眼をした。