「日本人の心」(中旬)夕日を見るとそのかなたに浄土をイメージした

僕は、その話を伺いまして、納得できませんでした。

日本人が本当に仏教というものを心の奥底に受け入れているだろうかと、大変疑問に思っていたんです。

平均的には、日本人はむしろ無神論者が多いんじゃないか。

仏教だ、神道だと言っているけれども、それはただ首から上だけの話であって、腹の底では唯物主義、文明を謳歌している。

神とか仏なんか信じない人間ばっかりではないか、そう思っていました。

すると、その方がこう言われたんです。

「あなた方日本人は、『夕焼小焼』という童謡を歌うでしょう」。

「歌いますよ」

と、私は何気なく答えました。

そうしたら

「あの『夕焼小焼』という童謡の中に、仏教の信奉のすべてのことがうたわれておりますよ」

と、突然言われたんです。

はっとしましたね。

これまで、そんなことを言う日本人は一人もいなかった。

どの書物にも、そんなことは書かれていません。

酔っぱらっていたので歌うことは出来ませんでしたが、心の中で『夕焼小焼』をつぶやいてみました。

すると

「ひょっとすると、そうかもしれない」

と思ったんです。

私は、その翌日からこの問題を考え始めました。

十日たって

「なるほどなぁ」、ひと月たって

「ますますその通りだ」と思うようになったんです。

最初の

「夕焼け小焼けで日が暮れて」。

夕焼けを思い出すと、何か感動体験が胸元を突き上げてくるように気分がします。

私はいろんな人に夕日、夕焼けの体験を聞いてきました。

例外なく、目を輝かせて自分の夕日体験、夕焼け体験を語ってくれますね。

私は、かつと日本列島人は、夕日を見るとその彼方に浄土をイメージしたと思います。

そこに浄土信奉があるんですよ。

人が死んでどこに行くか、浄土にお参りする。

その浄土の伝統が千年続いているんですよね。

現在私は大学で学生たちに教えておりますけれども、学生たちに浄土というと、ほとんどの学生たちは信じていない。

「先生、信じているのか」

「いや、私も信じていない」。

浄土が実在するとは、私も思っていないのです。

しかし、自分の生命が危機に襲われるとき、自分の家族がこの世を去るとき、不審に浄土がどこかに存在するという感覚を持つことがある。

そういうとき、夕日を見ると、その夕日の彼方に浄土のイメージがすうっと浮かびあがってくる。

というと、学生たちは

「分かる」

と言いますね。

存在するかしないかというと、そんなものはないということになる。

浄土はイメージするものだよ、と言うと分かる。

そういう日本人の心の伝統のようなもの、感覚のようなものをたった一行で言い当てたのが

「夕焼け小焼けで日が暮れて」です。