真宗講座末法時代の教と行 浄土真宗の教行信証 9月(前期)

謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり。

一つには往相、二つには還相なり。

往相の廻向について真実の教行信証あり。

『教行信証』「教巻」

冒頭の文です。

ここで

「浄土真宗」の語に着目したいと思います。

今日この語を理解する場合、大きく二つの見方があります。

一つは

「浄土真宗の教えを考えてみるに」と、浄土真宗の「教え」ととらえる立場です。

いま一つは

「浄土真宗の宗旨を考えてみると」と、「宗旨」としてとらえている立場です。

先ず、前者の立場に立つとすると、この

「教」は続いて説かれる

「それ真実の教を顕はさば」の文にみる

「教」と、どのような関係におかれることになるのか、理解し難い面が生じます。

両者は共に、

「教巻」の「教」を示そうとしているのですから、二者は当然、同一の内容を意味するものと受けとられます。

しかしながら

「教巻」冒頭の「浄土真宗」を「教」と見る場合は

「真実の教行信証あり」

といわれているように、教・行・信・証の四法を含む

「教」のことです。

これに対して

「それ真実の教を顕はさば」の

「教」は、四法中の一つ、行・信・証に対する教の意味ですから、二者の

「教」の意味内容は、明らかに異なっているとみなければなりません。

そうだとすれば

「浄土真宗の教え」というとらえ方は、注釈者自身が矛盾を犯しているか、あるいは非常に誤解を招く表現をしていることになります。

では「宗旨」だとする後者はどうでしょうか。

「宗旨」とは、本来は一つの教説の根本の趣意の意です。

そして、一宗の教義の主旨の意味でもあります。

しかし、ここの意味は、今日一般的に使われている

「宗派名」を示す言葉としてのものです。

けれども、もしそうだとするとこれは前者以上に問題があるといわなくてはなりません。

なぜなら親鸞聖人は、残された著述においても、そのご生涯においても、凡愚の集団による人間的な営みである宗派のあり方については、殆ど関心を示しておられないからです。

もちろん、後に成立した

「浄土真宗」という宗派については、全く関与しておられません。

既に示したように、親鸞聖人が明らかになさった

「機の真実」は、人間の不実性であり、人間の営みの一切はてん倒の中にしかないということです。

そうであるならば、人間的な営みの中にある一宗派は、たとえどれほどの隆盛をきわめたとしても、それはどこまでも一時的な現象に過ぎず、やがて必ず堕落は衰退していきます。

ここに私たちの社会の必然の理があります。

しかもこの真理を如実に見極められた方が親鸞聖人であるならば、その親鸞聖人ご自身が宗派のすがたに真実を見られるはずはなく、ましてやそこに確固不動の理念を求められることなど、ありえないと言わねばなりません。

ひるがえって、親鸞聖人の筆致をうかがうと

「謹んで浄土真宗を按ずるに」は、単なる

「教巻」冒頭の語というよりも、明らかにこれは『教行信証』全体の根源を示す語になっていて、この書が顕らかにしようとしている浄土真実の教行信証こそ、まさにこの

「浄土真宗」だと見ることができます。

このことから、この「浄土真宗」

の語は、親鸞聖人の究極的なよりどころ

「畢竟依」を示す語と理解することができます。

では、その「畢竟依」

とは、親鸞聖人にとっては何なのでしょうか。

『教行信証』の「序」において明示されている

「難思の弘誓・無碍の光明・円融至徳の嘉号・難信金剛の信楽・摂取不捨の真言・超世希有の正法」

である

「阿弥陀仏の仏教」であることは言うまでもありません。

そうすると

「謹んで浄土真宗を按ずるに」の文は、親鸞聖人が究極的なよりどころとしておられる阿弥陀仏の仏教の根本義、阿弥陀仏自身が私たちに説こうとしておられる浄土真実の教とは何かを、この冒頭において問われているのだと受け止めなければなりません。

ここにおいて、この御自釈の大意は、次のようになります。

阿弥陀仏の仏教には二種の廻向があります。

一つは往相(阿弥陀仏が十方世界の迷える衆生を自身の浄土に往生せしめるはたらき)二つは還相(阿弥陀仏が浄土に生まれた衆生を、再び彼らの国土に還裸らしめ、菩薩行を行ぜしめるはたらき)です。

この二種の廻向の内、往相の廻向についてみてみると、真実の教と行と信と証とがあります。

さて、今一つ、この文中の

「廻向」の義に着目することにします。

よく知られているように、親鸞聖人の廻向義は、仏教の教義として特殊な思想だとされています。

仏教思想一般では、廻向には菩提廻向・衆生廻向・実際廻向といった、いくつかの義が見られるとしても、いずれの場合も例外なく、廻向は仏道者自身の行為性を意味しています。

自分が修した善因を仏果のためにふり向ける、あるいは自分が具する善根功徳を他の衆生を利益するためにふり向ける、といった自らの

「はたらき」を指します。

ところが、親鸞聖人においてはそうではありません。

本願成就の文の

「至心に廻向せしめたまへり」という親鸞聖人独自の読み方によって明らかなように、自分の行為性の中に廻向義を見るのではなく、自分に向って来る如来大悲のはたらきの中に、親鸞聖人の廻向義は成り立っているからです。

そこでこの廻向義を浄土真宗では殊に

「他力廻向」と呼び、『真宗新辞典』では

「阿弥陀仏がその功徳を衆生にめぐらし施して、救いのはたらきをさしむけること」

と定めています。

ところが不思議なことに、今日この「二種廻向」

の註釈をみると

「その一は往生廻向。これは私共が浄土に往生する一切の仕掛けをお与え下さることである。他の一は還相廻向。これは私共が、浄土からこの娑婆世界へ衆生済度に還ってくる大用(はたらき)をお与え下さることである」

と、ほぼ救われゆく

「衆生」を中心としてこの廻向義が解釈され、私が如来の功徳の一切を与えられて浄土に往生し、またこの穢土に還り来ることだとして、往還の廻向義を

「廻向せしめられる」という意味に説いているのです。

これはむしろ当然ともいうべきで、親鸞聖人の廻向義の特異性を認めるかぎり、このように語られるからこそ、親鸞聖人の意図がより明確にとらえられているように窺えます。

しかしながら、果たして

「教巻」冒頭のこの文は、そのようなことを語っておられるのでしょうか。