とにかく、此(こ)宿(こ)には違いないので、範宴が門口に寄って尋ねると、
「ああ、病人の旅のもんならば、裏の離れにおるだあ。この露地から、裏へ廻らっしゃい」
木賃の亭主が、煙っている家の中で呶鳴る。
「少々、その者に、会いとう存じますから、それでは、裏へ入らせていただきます」
と範宴は、一応断って、教えられた裏の方へ廻ってみた。
百姓もするのであろう、木賃旅籠の裏には、牛なども繋いであるし、農具だの、筵(むしろ)だのが散らかっている。
亭主のいう離れとはどこかと見まわしている、飼(し)蚕(さん)小屋でも繕わしたのであろう、ひどい板小屋を二間に切って、その一方に、誰やら寝ている者がある。
(こんな所に寝ているのか)弟の境遇は、その板小屋を見ただけでわかった。
旅の空に病んでいる気持、恋のために世間から追いつめられて、その恋をすら楽しめずに死を考えている気持――。
まざまざと、眼に見せられて、彼は、胸が痛くなった。
驚かせてはならないと、しのび足に、板屋の口へ寄って、異臭のする薄暗い中を覗きながら、
「朝麿」と、呼んでみた。
すると、そこに見えた薄い蒲団を刎ねのけて、寝ていた者は、むっくりと、起き上がった。
「あ……これは」
と範宴は、あわてて頭を下げて謝った。
蒲団のうえに坐りこんで、こっちを見つめているのは、似ても似つかない男なのである。
年ごろ二十四、五歳の、色浅ぐろい苦み走った人物であった。
鷹のように精悍(せいかん)な眼をして、起きるとたんに右の手には、枕元にあった革巻の野太刀を膝へよせていた。
野武士の着るような獣皮の袖無しを着、飲みからしの酒壺が、隅の方に押しやってある。
「失礼いたしました。人違いをして、お寝(やす)みのところを」と詫びを入れると、男は、
「なんだ、坊主か」と、口のうちでつぶやいて――
「誰をたずねてきたのだ」
「身寄りの者が、この木賃にわずろうていると聞きましたので」
「それじゃ、若い女を連れている小伜(こせがれ)だろう」
「はい」
「隣だよ」
無造作に、顎で板壁を指して、男はまた、蒲団をかぶって、ごろりと横になってしまう。
「ありがとうございました」
すぐ足を移して、隣を見ると、そこには、破れた紙ぶすまが閉めてある。
「ごめん……」と今度は念を入れて、範宴は小声におとずれた。