「あなたが範宴御房ですか。お名まえはとうにうかがっていたが……」
と、法然からいう。
ものやわらかな声である。
範宴は礼儀をして、
「永年、お近き辺りに住まいながら、今日まで、会(え)縁(えん)にめぐまれず、初めて御門に参じた者にございます。なぜもっと早く、今日の心が出なかったろうかと思うことでありました」
「いやいや、遠くても近い者があるし、一(ひと)つ家(いえ)にいても遠い者もある、こうして幾千刻の月日を経てお目にかかったあなたと私こそは、まことに、遠くて近い者であったのです。こういう対面こそ、真の会(え)縁(えん)とは申すのでしょう」
「実は……」と、面を上げた時、範宴の耳に、ぱっと紅い血がのぼった。
なにか必死なものがその眉から迫ってくるのを上人は見てとったにちがいなかった。
微笑をふくんで、
「ご来意は――」と、しずかに誘(いざな)う。
「余の儀でもありませぬが、今日、おうかがいいたした仔細は、わたくしのこの一身を、ご迷惑でも、慈悲の門に拾っていただきたいと思って、窮鳥のごとく、お膝へすがって参ったのでございます。ついては、これから陳(の)べたいと思うわたくしの愚かしい過去のことどもを、お聞きとり下さいましょうか」
「ぜひうかがいましょう」
上人のことばには少しもお座なりなところはなかった。
熱心に膝をすすめて、
「なんなりと仰せられい」という。
範宴は、骨のゆるんだように両手をついた。
慈父に会った気もちである。
一(いち)朶(だ)の白雲が漂うかのような法然の眉、のどかな陽(ひ)溜(だま)りを抱いている山陰(やまかげ)のように、寛(ひろ)くて風のないそのふところ。
(この人へならどんなことでもいえる)という気持がする。
同時に、範宴は、きょうまでの難路や風雪の苦行に虐(さいな)まれぬいてきた自分の肉体と心が、この人の前では、あまりに甲斐なき惨憺(さんたん)にばかり傷ついていて、どこかに、人間としt不自然な頑(かたく)なな容(かたち)に凝固(かたま)っていることに気づいた。
「ここには、私のほか、聞いている者はありません、ご遠慮なく、いいたいことを仰っしゃってもさしつかえない」
法(ほう)然(ねん)もすすんで訊こうとするのである。
会いがたい人に今こそ会っているのだ。
範宴はそう感じると、どんな恥かしいことでも、どんな愚かなことでも、また罪悪でも、一切をここで吐いてしまおうと思った。
で、彼が縷々(るる)として話しだす事々には微(み)塵(じん)の飾り気も偽りもなかった。
二十年来の難行道の惨(さん)心(しん)は元よりのことである。
現在つき当っている大きな矛(む)盾(じゅん)――どうにもならない恋愛と社会、若い一身との複雑な昏迷の労(つか)れについても、自己の犯した罪業を包まず陳べて、解(げ)脱(だつ)の道をたずねたのであった。