私たちの「いのち」は、生まれたという原因がある以上、必ず死という結果を以て終ります。
そのため、しばしばロウソクによってたとえられたりします。
生まれた瞬間にロウソクに灯がともり、あとはだんだん短くなって最後は消えてしまう。
「いのちの灯が消えた」瞬間が、まさに私の死の瞬間という訳です。
一般にそのような考え方が定着しているせいか、私たちの人生はあたかもいのちを「消費」していくかのような印象で受け止められています。
したがって、どれほど懸命に生きたとしても「自分はいったい何のために生きているのか」ということの意味が分からなければ、山のように財産を築いても、どれほど高い地位についても、それらは「死」の前では全く無力であるため、最後に残るのは空しさだけということになるのではないかと思われます。
しかもそれは、いわゆる「成功」を収めた場合でさえそうなのですから、ましてや必死に頑張ったにも関わらず結果的に報われなかったとしたら、惨めな思いを抱えながらその生涯を終えていくことになるのかもしれません。
いずれにせよ、人生の終りはいつ訪れるか分からないのですから、そこには日々刻々の不安はあっても、生きることの真の喜びは見出せないのではないでしょうか。
私たちは、どのような生き方をしていても、成功することもあれば失敗することもあります。
それは、結局私たちの人生はなるようにしかならないということです。
そうであれば、そのどちらになったとしても、自分が生きているということの事実そのものが空しくない、という生き方を見出せなければ、最後は「空しかった」の一言で砕け散ってしまうことになるということです。
私たちは、しばしば人生とは生まれてから死ぬまでの「長さ」として考えてしまうのですが、人生の本当の意義は、むしろ「深さ」なのではないでしょうか。
例えば、人生の意義が「長さ」だとすると、人生の途上で何らかの失敗や挫折に直面した場合、人生そのものがそこで切断されてしまうようなことになります。
けれども「深さ」であれば、努力をして失敗したということを契機として、人生におけるさらに深い世界に目が開かれるということがあったりします。
私たちは、嬉しいことや楽しいことは常に期待していますが、悲しいことや辛いことはできる限り忌避したいと考えています。
そのため、期待に反する出来事に直面すると「不幸な目にあった」と言って悲嘆します。
もちろん、そのようなことが無ければないにこしたことはありませんが、「人間には悲しみを通さないと見えてこない世界がある」とも言われます。
これは、悲しいとか辛いといった体験を通して初めて見えてくる世界があるということです。
それは、私たちの人生には一つも無駄なものはなく、すべてが必要なものであり十分なものであるということです。
このような意味で、私たちは「必要にして十分な人生」を生きているのだと言えます。
もし、失敗したということが私の人生に新しい意味を見出すために必要なことであった、悲しみの体験は私が人間として育っていく上で決して無駄なものではなかったということになれば、私の人生は「空しい」ということにはならないのだと思います。
仏教では「五怖畏」 (不活畏・悪名畏・命終畏・悪道畏・大衆威徳畏)ということを説いています。
不活というのは、食べていけるかという生活への畏れ。
悪名というのは、他人から批判されたり嘲笑されたりするのではないかという畏れ。
命終というのは、いつ死ぬか分からないという死への畏れ。
悪道というのは、今日は幸せでも明日は不幸に陥るのではないかという畏れ。
大衆威徳というのは、自信を持てず人びとの前で自在にものを語り行動できないことへの畏れです。
これらは、一言で言うと「明日、どうなるか分からない」ことへの畏れですが、『華厳経』には本当に人生の現実というものに目を開く智慧を得れば、人間は人生におけるこの五つの畏れから解放されると説いてあります。
このように、私たちはいつも「明日はどうなるか分からない」ことへの不安を抱えながら生きているのですが、現在、まさにこの一瞬一瞬を全うして生きて行くことが、そのまま明るい未来を約束してくれる、そういう生き方を親鸞聖人は「往生浄土」という言葉で私たちに教えていてくださいます。
往生の往はゆく、生は生まれるです。
一日一日が新しい世界へ往くのであり、その一日一日が新しい私の誕生なのです。
どのような生き方をしていても、また明日何が訪れるか分からなくても、私はその中を生きて往き、そこに本当の自分を見出していける。
そのような生き方においては、幸福になったからといって有頂天になる訳でもなく、不幸になったからといって絶望してしまうこともありません。
いつでもそこに、私が生きて行くことの意味を見出して行くことができます。
それは、一日一日を「新たな」一日として生きて行く在り方であり、そのような自覚から語られる言葉が、まさに「いのち日々あらたなり」なのだと言えます。