ご講師:大囿純也さん(南日本新聞社代表取締役社長)
鹿児島の県民性についてお話ししますと、「薩摩の芋づる」ということを言います。
これにはいろんな言い方がありますが、「薩摩の大ちょうちん」というような言い方もします。
ちょうちんといっても、今では盆踊りのちょうちんぐらいしか思い出しませんが、昔は夜道を歩くときにはちょうちんを照らしておりました。
皆さんは十人でどこかへ出かけるとき、十人全員がちょうちんを持っていくでしょうか。
ろうそくがもったいないですよ。
最初の一人が持てばいいんです。
あとはぞろぞろ付いていけばいい。
その代わり、十人が付いていくわけですから、少しばかり大きなちょうちんじゃないといけないんです。
だから「薩摩の大ちょうちん」と言うんです。
後ろの人はろうそくがもったいないから火を消すわけです。
けれども先頭の人のろうそくが消えてしまったら、みんなが路頭に迷うんです。
つまり先頭の人に言うがままに付いていけばいい、知事さんがこうしろと言えば言ったようにすればいい、町長さんがこうしろと言えばそうする、お坊さんがこうしろと言えば言ったようにする。
これが「薩摩の大ちょうちん」なんです。
県民性にはプラスとマイナスの部分があります。
私の長男の嫁が静岡の出身なんですが、この嫁の親父というのが、もう亡くなったんですが、市会議員をしていて、いろいろと話の好きな人だったんです。
結納のときに、静岡の県民性について話をしたのを覚えています。
「静岡は静岡市が中心なんですが、浜松と沼津は全然ちがいますね。浜松県というような感じですよ」
と言うんですね。
それもそうです、立派な企業というのは浜松ですよ。
最近では、静岡市は県庁所在地であるにもかかわらず新幹線も止まりません。
これはよく言われることで、静岡の県民性を表す比喩ですけども、
「明日食べる米がない。財布も空だ。さあどうする」
といえば、
「浜松の人間は押し込み強盗に入る」と言うんですよ。
「沼津の人間は寸借詐欺、そして静岡の人間は乞食をする」
と言うんですねこれは私が言ったんじゃなくて、静岡の人間がそう言うわけです。
「薩摩の芋づる」と対照的なのが熊本ですね。
「人が右と言えば、私は左」というようなところがあります。
「肥後のくわがたかぶと」とか言いますが、ようするにみんなが大将かぶとをかぶっているわけです。
鹿児島であれば、大ちょうちんが一人かぶとをかぶっていれば、後はみんな付いていくわけですが、熊本はみんなが大将ですからね。
また、他に似たようなものに、「佐賀の異風もん」というのがあります。
つまり、佐賀人も「右向けと言えば左」というところがあるわけです。
歴史的にみると、薩摩と日向は一体でありました。
いわゆる薩摩の三州です。
しかし、県民性から言うと、非常に際立ったところがあります。
宮崎日日新聞の社長さんが、「宮崎の県民性というのは、良くも悪くもおとなしい」というふうに言われています。
アイデンティティーとでも言うんでしょうか、ナショナリズムというのがない。
私は経験があるんですが、編集委員をしていたときに、県民性の取材をしました。
ちょうど西南戦争から百年ということで、宮崎日日新聞が連載記事を書くというんです。
宮崎というところは西南戦争で大変な被害を受けたんです。
西郷軍が敗走するときに、豊後から日向に入り、都城を駈け抜けて帰ってくるわけですが、その間に大変な被害を与えているわけです。
そういう被害者としての立場から西南戦争を総括しようと、いざ連載を始めたところ、読者から「なんで百年もたってから西郷さんの悪口を言うのか」
と猛反発があったそうです。
そういうところが宮崎人にはあるんですね。