その侏儒(こびと)は、京都から雇ってきた蜘蛛太とよぶ男で、庭掃除の小者として使っていたが、側女の山吹とのあいだに、おかしな噂があったので、年景が怒って、先ごろ、牢へ押し籠めてしまった者である。
その蜘蛛太が?――
年景は、驚いた。
アッと顔を上げたまましばらくは眼を奪われていた。
どうして、牢内から出てきたのか。
猿みたいに、樹の上にあがって、こっちを見ているのだ。
自分を嘲笑うように歯を剥いている。
「おのれっ」
年景は、縁板を踏み鳴らし、
「化け物っ、降りろッ」
――すると蜘蛛太は、
「化け物っ、眼をさませ」
と口真似して、
「やい代官」
「な、なんじゃと」
「使われているうちは主人と敬(あが)め奉っていたが、もうこうなれば、主でもねえ下僕でもねえ、おれは昔の天城四郎の手下になってみせるぞ」
「やっ、おのれは、賊か」
「オオ、以前は、泥棒を商売にしていtが、自分の頭領が発心して、僧門に入る時、てめえも真人間になれと懇々いわれたので、それ以来、泥足を洗って、てめえのような凡くらに、きょうまで、おとなしく仕えていたが、もう止(や)めた。真人間になるなんて、こりごりした。いったいこの世の中のどこに真人間なんて者がいるかってんだ。てめえのような悪代官を見ると、おれたちの昔の友だちのほうがはるかに正直で涙がある」
「よくもいうたな、おのれ、引きずり降ろして、鋸(のこぎり)引きの刑にしてくれる」
「わらわすな」
と、蜘蛛太は、依然としてそこに落着きこんで――
「おれが逃げようと思えば、こんな田舎の陣屋の牢ぐらい、幾らでも破ってみせる」
「よしっ、その舌の根を」
憤然と、年景は、家の内へ走りこんだと思うと、弓と矢を持って、ひらりと、縁先から跳び降りた。
酒気のある顔に、血をそそいで、弓に矢をつがえ、キリリと引きしぼって、こずえの空を狙うと、
「やい待てっ。――おれを射る気か」
「…………」
ぴゅっと、返辞のかわりに矢は空へ翔けた。
――しかしあわてたので蜘蛛太の体を外(そ)れていた。
ただ二、三枚の若葉がばらばらと散ってきただけである。
「なんていう下手な弓だ、そんなヘロ矢で人を射落とそうなどというのは、量見ちがいだぞ。――それよりはヤイ代官、なぜその矢で、自分の胸を射ないか、てめの胸のうちには、おれより怪異な魔ものが住んでいるじゃねえか。その魔ものの名を、増長というんだ。よくも、この蜘蛛太と山吹さまに汚名を着せやがったな、その返報は、きっとしてやる、覚えていろ」
いうことばのうちに、年景は、二の矢をつがえていた。
ぷつんと、弦(つる)が高く鳴った。
矢はたしかに前よりも正しく飛んだ。
――けれど、蜘蛛太はとたんに、ほかの梢へ跳び移っていた。
「出合えっ、家来どもっ、破牢者をとらえろッ」
年景の声に、廓内は跫音にみだれ合った。
だが、役所の屋根のうえを、一度、勢いよく躍り駈けてゆく姿が見えただけで、蜘蛛太の影は、どこへ失せたか、それきり幾ら探しても見出すことができなかった。