毎年冬になると感染症が流行しますが、その代表ともいえるのがインフルエンザです。
ヨーロッパで最も古い記載は紀元前412年のヒポクラテスとリヴィによるものとされ、11世紀には明らかにインフルエンザの流行を推測させる記録が残っています。
日本でも、平安時代の近畿地方にインフルエンザの流行をうかがわせる記録があり、江戸時代には「はやり風邪」と呼ばれ、「お駒風」「琉球風」など、流行によって世相を反映したさまざまな呼び名がつけられました。
このように長い歴史のあるインフルエンザですが、ウイルスによる病気だと分かってきたのは、最近のことです。
「インフルエンザ」という病名は、16世紀のイタリアで生まれました。
当時のイタリアでは、毎年冬になると、高熱や鼻水、くしゃみが出て、それが悪化して死に至るという病気がはやりました。
当時は、占星術が力を持っていたこともあり、冬になると人びとが高熱を発して死んで行く理由を星の動きと結びつけて考えました。
現代のような科学の発達していない時代にあっては、冬の星座の出現とともに病気が流行し、春先になると終息することから、星の影響によってこの病気になると考えたのです。
「影響」をイタリア語では「インフルエンツァ」と言います。
この言葉がイギリスに伝わり、英語として「インフルエンザ」になりました。
英語でも「インフルエンス(影響)」という単語がありますが、語源は同じです。
イタリア語の「インフルエンツァ」から「インフルエンザ」という病名が生まれたという訳です。
顕著な感染や死亡被害が著しい事態を想定した世界的な感染の流行を「パンデミック」と呼びますが、20世紀には第一次世界大戦の最中、3波にわたりパンデミックが全世界を襲いました。
第1波は1918年3月にアメリカの北西部で出現しました。
インフルエンザウイルスは、大戦に参戦することになったアメリカ軍とともにヨーロッパに渡り、兵舎という密閉されたところで数千人もの兵士が共同生活をしていたので、瞬時に感染して多くの死者を出しました。
ところが、戦争の最中であったため、自国の兵士が病気で次々に倒れていることが相手に知られると不利になると考えられたことから、この事実は機密扱いされました。
ところが、戦争に参加していなかった中立国のスペインでもインフルエンザが大流行し、王室にまで感染が広がったことから大々的に報じられました。
そのため発生源はアメリカであったにもかかわらず、その事実は伏せられて「スペイン風邪」と呼ばれるようになりました。
なお、西部戦線の両軍兵士に多数の死者を出したことから、これが戦争の終結を早めたといわれています。
第2波は同年秋、世界的に同時発生して、さらに重い症状を伴うものになりました。
第3波は1919年春に起こり、同年秋に終息に向かいました。
当時は病気の原因がウイルスだは知られておらず、後の血清疫学調査や剖検肺や凍土中の患者肺からのRNAの解析で判明しました。
この間、なんと世界での感染者は約6億人。
死亡者は約4,000~5,000万人。
当時の全人類の約3割が感染。
疫病史上有数の大被害となりました。
日本では1918年(大正7年)の11月に全国的な流行となり、1921年7月までの3年間で、人口の約半数(2,380万人)が罹患し、38万8,727人が死亡したと報告されています
アメリカでは、南北戦争の死亡者や第二次世界大戦での死亡者数を大きく上回り、パンデミックの脅威をまざまざと見せつけました。
人びとの多くがその免疫を獲得するにつれて、やがて死亡率は低下しましたが、1957年にアジアかぜが現れるまで流行し続けました。
20代から30代の青壮年者に死亡率が高かった原因は不明で、謎として残っています。
通常は小児や高齢者の死亡率が高いものの、スペインかぜの死因の第一位は二次的細菌性肺炎でした。
このとき、初めて剖検肺中に細菌が証明されないことから、ウイルス肺炎が疑われるようになりました。
周知のように、インフルエンザは毎年のように変異するため、それが未知の変異をした時に、再びパンデミックが起きるのではないかということが常に懸念されています。
そのため、映画の世界ではこれまでパンデミックをテーマにした作品がいくつも作られてきました。
いわゆる、人間対ウイルスという図式です。
ところが、近年は同じパンデミックを扱った作品でも、少し内容が変わってきている感じがします。
それは、人間がある目的のために人為的にパンデミックを引き起こそうとするあり方です。
人為的という点では、これまでにも「ウイルスをばらまく」と脅し、不特定多数の人びとを人質に取る形で金銭を要求するというものもありましたが、これは誘拐犯の変型といえるかもしれません。
けれども、被害を受ける対象は無差別なのですが、最近の映画の中でウイルスをばらまこうとする人間は、金銭奪取が目的ではなく、一種の使命感とでもいうべき明確な信念を持っているのです。
それは、旧約聖書の『創世記』の
神は地上に増えた人々の堕落(墜落)を見て、これを洪水で滅ぼすと「神と共に歩んだ正しい人」であったノア(当時500~600歳)に告げ…
という物語を思い起こさせるような内容です。
世界の人口は急激に増え続けていますが、それに伴いやがて食料危機が到来すると言われています。
また、このまま地球が温暖化するのをストップできなければ環境が悪化の一途をたどるのは必至ですし、依然として世界の各地で戦禍がやむ気配もありません。
そこで映画の中では、『創世記』の中の「神」に代わって「地上に増えた人々の堕落(墜落)を見て、これをウイルスで滅ぼそう」とする「人間」が登場してくるという訳です。
今はまだ映画の中の話で終わっていますが、もし同じ信念を持ち組織的にこれを実行しようとする人びとが表れた場合、世界がグローバル化している現代では、目に見えないウイルスがばらまかれると、瞬時に拡散して人為的なパンデミックが起こってしまうかもしれません。
一方、浄土教ではどのようなことを説いているでしょうか。
阿弥陀仏は「生きとし生けるものを無条件にして救う」と誓い、親鸞聖人は「摂取」という語句について
摂めとる。
ひとたびとりて永く捨てぬなり。
摂はものの逃ぐるを追はへとるなり。
摂はをさめとる、取は迎へとる
と、述べておられます。
このように、いま私たちが出遇っている念仏の教えは、仏の意に添わないからといって滅ぼされてしまうということはありません。
ともすれば、教えに背を向けてしまうような私を見捨てないばかりか、どこまでも追いかけ必ず悟りの世界に迎え入れようとする教えです。
映画を見終わったあと、親鸞聖人の「世の中安穏なれ 仏法ひろまれ」の言葉に、改めて頷いたことでした。