さつまの真宗禁教史9月(後期)

女子の一向宗徒は、素裸にされて木の馬に乗せられて、隠門には大縄を挟ませて双方前後より引き合い、また棒でついたりいたします。

このような拷問を受けますが、元来、信心堅固の者は不惜身命と覚悟し、そして「御文章」の中の〝牛盗人”はいわれても念仏者と思われる振舞いをするな、とのお言葉を大切にして、白状しない同行は五体を打ち砕かれて、病気になったり、牢に入れられたり、あるいは親類に預けられたり、あるいは裁許中は長髪で生き恥にさらさせるという状態です。

信心の浅い同行は仕方なく罪に服し、本尊や諸仏具を役所に提出いたします。

そこで本尊は鹿児島の役所の蔵に収められ、仏具類は没収した場所で焼き捨てにされます(薩摩国諸記)。

かくして、幕末期の本願寺門徒への弾圧は厳しく、非人間的な拷問が加えられたのでした。

現在、伝わっている殉教悲話の多くはこのころのものです。

それでは、幕末期の天保六年にどうして門徒へ厳しい弾圧が行われたのでしょうか。

その直接の原因を本願寺の使僧として薩摩国に潜入した妙光寺は、

天保六年の本願寺門徒の弾圧は、その前年の春、東目煙草講と蒲生(姶良郡)の法難の際、「本願寺財政改革上納帳」が奪い取られ莫大を国財が流失していることが判明した。

そこで国が困窮するということで吟味が行われ、例年とは異なり糾明が厳しかった(薩摩国諸記)-と本願寺に報告しています。

時に本願寺は財政改革の最中で、全国的に募財を行い、薩摩にも布教と募財のために僧侶を潜入させました。

また薩摩藩も同様に財政改革の途上であり、天保六年はその推進者調所広郷が江戸や大坂や京都の商人からの借財五百万両を二百五十年間無利子償還という不当な経済政策を断行した年でありました。

ちなみに薩摩門徒も本願寺に「家老職にある調所広郷が国財の流出をきらって、役人中村新助を門徒にしたてて京都に滞在させ、薩摩門徒が本願寺に上納する金額と人名を綿密に調査してから天保六年の大法難がおこった」と報告しています(薩摩国諸記)。