「分別」

「分別くさい」

「分別盛り」

というように、世間のことに関して常識的で慎重な考慮・判断をすることや、その能力を指す言葉を「分別」、その反対の言葉に「無分別」があります。

「無分別なことをいう」

「無分別きわまりない」

などは、いずれも思慮を欠いた状態を指していわれる言葉です。

この「分別」「無分別」は、仏教でもしきりに使われる言葉ですが、その意味するところは、日常での使い方とは正反対のものとして考えられています。

仏教で「分別」というときは、言葉や考え方によって、勝手にこしらえ考え出す妄想という意味で、「無分別」は妄想にとらわれず、ありのままに正しい真理を理解することです。

この「分別」については、中国古代の思想家の荘子も同じようにその欠陥を指摘しています。

この宇宙における真理はどのようにしてとらえるのかという場合、私たち人間の常識では、何かを理解しようとすると「分かる」という言葉が示すように、物を「分ける」ことによって事がまず始められます。

あるいは

判断(物を半分に分断する)、

分析(物を分けて析く)、

理解(物にすじめをつけて分解する)

というように、人間は一つのものをそのままでは「知る」ことが出来ず、必ずこれを二分することを通して初めて知ることができるのです。

したがって、知識でとらえられた世界は、必ず前後・左右・善悪・美醜という相対差別の姿であらわれます。

けれども、二分された姿は果たして本来の形、ありのままの姿なのでしょうか。

真の姿をとらえようと思うならば、「無分別」という相対的なものの見方を離れた絶対の立場からのものの見方でなければ、一部を全体と見誤ってしまうことになるのだと思われます。