親鸞聖人はつね日頃人々に
『自分は
「ただ念仏して阿弥陀仏に救われよ」
と教えられた、法然聖人の言葉を信じているだけです』
と語っておられます。
「念仏」
とは、仏を念ずる行為ですが、ここでは口に
「南無阿弥陀仏」
と称えることを意味しています。
もともと念仏は、仏弟子が一心に釈尊を慕う心から始まりました。
その心は、釈尊がお亡くなりになって、より一層募りました。
仏の徳が偲ばれ、姿を想い、名前が呼ばれたのです。
それは、仏弟子の
「常に仏と共にいたい、仏の功徳を頂きたい」
という強い願いに基づくものです。
そうだとしますと、その願いは時の流れにしたがってますます強くなり、無限の功徳と無限の時間を有する仏が求められます。
そこで念仏は、仏弟子たちにとって、仏になるための最も重要な仏道になりました。
仏の名号を称え、仏の功徳を念じ、仏の相好(おすがた)を観察する。
この行為によって、行者はまさしく仏と一体になり、心を統一し、真実清浄にして智慧を磨き、仏の功徳が身に満ちるように願ったからです。
ただし、このような行の完成は、菩薩と呼ばれるような、よほど優れた行者でなければ不可能で、愚かな凡夫はいかに一心に念仏を行じたとしても、仏徳が身に満ちることなど起こり得ません。
だからこそ、凡夫は迷い続けることになるのですが、けれども無限の仏の功徳は、このように迷い続ける衆生こそを一方的に救おうと願われ、向けられているのです。
では、それはどのような
「仏」
なのでしょうか。
その仏こそ、無限の時間と空間、宇宙の一切を覆い尽くして、そこに迷える一切の衆生を救おうと願われている仏だといえます。
無限の時間を古代インドでは
「アミターユス」
と発音し、
「無量寿」
の意味と解し、さらに無限の空間の一切を覆い尽くして、そこに迷う一切の衆生を救う
「はたらき」
を、やはり古代インドでは象徴的に
「無限の光明」
と捉えて、
「アミターバ」
と発音しました。
さて、
「南無阿弥陀仏」
とは、どのような仏なのでしょうか。
阿弥陀仏とは、このインドの
「アミターユス・アミターバ」
という言葉が、中国で統一されて、
「阿弥陀仏」
という漢字で表現されました。
「南無」
もまた
「ナモー」
の音写で、
「帰命」
と意訳されていますが、この語を親鸞聖人は、阿弥陀仏が自らの全生命をかけて、一切の衆生を救おうとしておられる願いであり、力用(はたらき)だと解釈されました。
法然聖人は、
「ただ念仏して弥陀に救われよ」
と教えられました。
では、なぜ
「南無阿弥陀仏」
と称えることが、仏道のすべてなのでしょうか。
愚かな凡夫は、仏に導かれない限り、仏への道を歩むことはできません。
一方、阿弥陀仏は、私たち凡夫がその仏への道を求めるはるか以前に、この迷える者を救わずにはおかないと願っておられます。
したがって、この凡夫を救う阿弥陀仏の大悲の躍動こそが、私たちの念仏、
「南無阿弥陀仏」
にほかならないが故に、念仏することが私たち凡夫の仏道の全てになるのです。
親鸞聖人は、法然聖人の教えを通して、この念仏の法、南無阿弥陀仏を称えつつ、一切の衆生を摂取される阿弥陀仏の大悲を信じられたのだといえます。