「聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられそうろう」
この文は、浄土真宗のご法要にお参りになられた方であれば、おそらく一度は耳にされたことがある言葉だと思われます。
本願寺第八代法主・蓮如上人のお手紙(御文章)の一節で、
「聖人」
とは宗祖親鸞聖人を指します。
親鸞聖人の教えの根本は
「信心」
だと述べておられるのです。
このことは有名な『歎異抄』の冒頭でも
「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし」
と述べられていますし、親鸞聖人ご自身も著述の中で、繰り返し
「愚かな凡夫は、ただ信心一つで仏になる」
と示しておられます。
このように、浄土真宗では
「信心」
が非常に重視されているのですが、ではその信心とはどのような心かと尋ねられますと、その途端に心がぼやけて返答に困ってしまうのではないでしょうか。
「信心」
とはいうまでもなく、信じる心のことです。
では、いったい何を信じるのでしょうか。
信じる対象は阿弥陀仏」
だといえます。
つまり、
「阿弥陀仏によって救われるのだ」
と信じるのです。
そこで、このように
「信心」
が大切にされているのですから、浄土真宗の教えに育てられている私たちは、常々
「阿弥陀仏を信じなさい」
「弥陀の本願を信じなさい」
「そのまま阿弥陀仏の大悲に救い取られていると信じなさい」
「念仏して浄土に生まれるのだと信じなさい」
等と、教えられることになります。
そこで、自分に問いかけてみるのです。
はてして、自分は確かに阿弥陀仏を信じているのだろうか。
間違いのない真実信心を頂いているのだろうかと。
そうすると、誰しも不安な心に陥るのではないでしょうか。
なぜなら、
「阿弥陀仏を信じているという」
という確証は何一つ得られませんし、浄土に生まれるのだという歓喜の心も、何ら生じてこないからです。
このような意味で、真宗者にとって最も怖いことは、
「あなたは本当に信心を得ていますか」
と、問い詰められることだと言えます。
ところが、その確証は得ていませんし、心は常に動揺しているのですから、そう問われると誰しも不安にならざるを得ません。
ただし、これは当然のことであって、阿弥陀仏も本願も大悲も浄土も、私たちにとっては見ることもふれることも知ることも出来ないのですから、私の力でその真実の姿を掴み、確かな信を得ようとしても、それは本来無理なことなのです。
では、私たちにとって本当に疑いなく信じることのできものとはいったい何でしょうか。
それは、臨終の瞬間まで、そのようにただ不安におののく自分の姿だといえるのではないでしょうか。
だとすれば、このどうしようもない愚悪なる自分の姿を限りなく信じることが極めて重要になります。
ところで、
『歎異抄』
には、阿弥陀仏の本願力は、その愚悪なる凡夫こそを救うと説かれています。
私たちは、その親鸞聖人の教えもまた、信じることが可能なのではないでしょうか。
浄土真宗の信心とは、自分には確固不動の踊躍歓喜の信ありとおおげさにいうことではありません。
愚かで、不安のままで、それ故にこそ、この者を救うという阿弥陀仏の本願の教えをただ信じることなのです。
このように、本願の真理が明らかになり、その真理に疑いの余地のなくなった心が信心なのです。