仏教を学ぶ場合、二通りの学び方があると言われます。
一つは解学、今一つは行学といいます。
解学というのは、仏教を思想として学ぶことで、あえて言えば哲学といえます。
「宗教哲学」
という学問がありますが、仏教を哲学として学ぶ時には、仏や菩薩の悟りあるいは凡夫の迷いの内容を分析して、理論的に学ぶことが出来ます。
つまり、自分の人生や生活とは無関係に、教理を客観的に学ぶということだけなら、どのような教えでも自由に学ぶことが出来るように思われます。
これに対する行学、端的には
「行を学ぶ」
という場合は、なかなかそういう訳にはいきません。
なぜなら、行学というのは自分の生き方を仏教に学ぶという在り方だからです。
自分の生き方は、私の自由自在にという訳には参りませんので、同じように難しいのです。
このことについて、中国の唐の時代の善導大師という方は
「もし行を学ぼうと思うのであれば、必ず待対の法をよりどころにしなさい」
と教えておられます。
ここで言われる
「待対の法」とは
「人間を待ち、人間にこたえる仏法」
というような意味ですが、人間が仏法を待っているのではなく、仏法の方が人間を待っているのだと言われるのです。
言い換えると、人間が仏法に従うのではなく、仏法の方が人間に従う。
つまり、私たちが仏法を聞いてその教えに従って生きるというのではなく、私たち人間の生きている事実の方が先にあり、その悩んだり苦しんだりして生きている人間の問題にこたえるのが仏教だということを、善導大師は
「待対の法」
という言葉で教えて下さっているのです。
そうしますと、真の意味で
「仏法に遇う」
ということは、私が理解する以上に、私の事実が既にこたえられていたという事実に気付くことだといえます。
仏法の語りかけに耳を傾けると、そこで耳にするのは、私が今まで知らなかったことではありません。
新しい教え、新しい言葉を知るのではなく、私の事実を言い当てている言葉がすでにあったということを知るのです。
言うなれば、私を言い当て、その私にこたえる言葉に出会うということなのです。
このような意味で仏法とは、日頃私たちが自分の姿を知りたい時には鏡の前に立つように、どこまでもこの私自身を言い当て、明らかにする鏡の役割を果たしてしてくれる教えだといえましょうか。