『咲いた花にもいのちあり散った花にもいのちあり』

私たちは日常、特に気にすることもなく

「いのち」

という言葉を口にしたりしていますが、果たして

「いのち」

とはいったい何なのでしょうか。

私は気がつけばこうして生まれていたのですが、自分が生まれたときのことは、自分では何ひとつ分かってはいません。

また、やがてはいつか死んで行くことになるのですが、死ぬということはいったいどのようなことなのか、実のところそのこともよく分かってはいません。

つまり、私のいのちは分からないところから始まって、分からないところへ行くということだけが確かに分かっていることなのです。

そうすると、いのちとは分からないところから始まって、分からないところで終わるもの。

言い換えると、いのちとは何となく分かっているようで、実は自分にはよく分からないものなのだといえます。

けれども、事実はそうであるにもかかわらず、私たちは今こうして生きている間は、誰もがいのちとは何かということを分かったつもりで生きているように見受けられます。

ときに、この世に生を受けて生きているのは人間だけではありません。

この地球上には多くの生き物が生きており、しかも経典には

「生きとし生けるものは、すべて自らのいのちを愛して生きている」

と説かれています。

ところが、現実の世界においては、すべての生き物は自らが生きるために、いのちを持って生存している他の生きものを食べなければ生きては行けません。

それは、このいのちは他の生き物のいのちを奪うということの上に成り立っているということです。

もちろん、このことは何も人間だけに限ったことではありません。

この世に生を受けているどんな生き物も、死にたいと思って生きている生き物は一つもないと思われるからです。

例えば、大変な日照り続きで水をやらないと枯れるというような時でも、水がなくて苦しいから枯れたいと思っている草木はないと思います。

しかし、残念ながら水がなければ結局枯れていってしまいます。

そういう意味では、人間というのは極めてわがままな生き物だといえます。

何故なら、人間は辛いことや苦しいことがあると、自ら死にたいと考えてみたり、あるいは実際に死んでしまうことがあったりするからです。

どのような生き物も、平等にいのちの根底には

「生き尽くそう」

ということがあります。

その生を尽くそうとしている生き物のいのちを、人間は生きるために殺して食べて生きています。

もし、全ての生き物が同じ言葉を話すことが可能であるとしたら、ただ黙って死んで行く生き物は一つもないのではないでしょうか。

私のいのちを生かすために死んでいった無数のいのちの言葉。

それは

「いのちの願い」

とでも言い換えることが出来ますが、それはいったいどのような願いなのでしょうか。

ひとことで言うと、

「私のいのちを無駄にするような生き方だけはするな!」

ということだと思います。

もし、多くの生き物のいのちを奪って、単にそのまま死んで行くだけなら、無数のいのちを踏みにじって殺したというだけの人生だと言わざるを得ません。

まさに

「罪悪深重」

です。

私が生きて行くということは、同時に多くのいのちの願いを生きるということです。

そして、その無数のいのちの願いを成就するということは、仏の教えを聞いて自らが仏となるということです。

このような意味で、仏の教えを聞くということは、人間がいのちを奪い続けるだけの存在から、無数のいのちの願いを成就していくはたらきを担う存在となって行くための唯一無二の機縁だといえます。

それはまさに、一歩一歩願成就の行者として生きて行く私となっていくということです。

現代は

「いのちが見失われた時代」

だと言われますが、このようないのちの願いに応えるという視点を賜るとき、季節を彩る花の中に、いのちを感じる心が美しく花開くように思われます。