今年の11月に祖父の七回忌を迎えます。
祖父は、私の寺院の前住職で、外孫ではありましたが、初孫である私をとてもかわいがってくれたことを今でもはっきりと覚えています。
私の寺院では祖父の後に住職を継ぐ者が決まっておらず、後継者不在のまま祖父が住職の任についておりました。
私が小学校1年の時、祖父にこう聞いたことがあります。
『おじいちゃん、おじいちゃんはお寺のお坊さんでしょう?おじいちゃんがいなくなったら、誰がこのお寺のお坊さんになるの?』
すると、祖父はこう答えました。
『うーん…だれもいなくなるねぇ。
どうしたらいいかねぇ?誰もおらんがよ…。』
そう言った時の祖父のさみしそうな顔は、今でも忘れることができません。
祖父が大好きで、
「なんとか
祖父の力になりたい…」
そう考えた私は、こう言いました。
『おじいちゃん、じゃあ、おじいちゃんの次は僕がするよ!』
それを聞いた祖父は、はじめはびっくりした顔をしていましたが、次の瞬間その顔が笑顔に変わりました。
『おぉ…、本当かね?やってくれるかい?』
祖父の喜ぶ姿が見たかった私は、間髪を入れずに
『うん!』
と、うなずきました。
それを聞いた祖父は、満面の笑みと共に、溢れんばかりの涙を流して喜んでくれました。
当時の私には、嬉しいという言葉を口にしているのに、
「なんで泣いているんだろう?」
とその理由がよくわかりませんでした。
時がたち、今年が祖父の七回忌ということもあり、改めて祖父との様々な出来事が思い出されます。
本堂でお勤めをする時も、手を合わせながら
「祖父との縁があったからこそ、今の私がここにいるんだなぁ。
私のいのちがこうして今ここにあるのも祖父がいたからこそだなぁ。
その祖父も、阿弥陀さまのみ教え、寺院をささえてくださるご門徒の方々のお蔭さま、助けてくださる周りの人々の支えがあったからこそあった命だったんだなぁ…」
と、しばしば感じることです。
手を合わせ、阿弥陀さまのみ教えを味わい、そして今自身がみ教えに照らされていく中で、この手を合わせる契機となった祖父との尊く不思議な縁をとおして、命のまことの姿に気付かされることです。
そういった、命のまことの姿に気付かされることで、今こうして生きていること、尊いいのちをいただいていることに、心からの喜びを感じることです。
私のいのちは、決して独りであるのではない。
たくさんのいのちの支えのなかに、たくさんのいのちの喜びの中にある。
そう考えると、この私のいのちの事実を日々心から喜ばずにはいられません。