『本当の喜びはいつまでも消えない』

私たちが生きて行く上で

「積極的に生きる」

とか

「生産的な生き方をする」

という場合、それはどのようなことを物語っているでしょうか。

例えば職業ということがあります。

それはまた事業とか、あるいはもっと身近な言葉で言えば仕事と理解してもらえると良いのですが、一般に私たちは仕事をしなければ生きられません。

ここでいう仕事とは、常に何かを作り出して行くことであり、またそこには常に一定の成果(成功)というものが期待されることを指します。

この、何かものを作り出すという生き方においては、常に成功する、成就すると確信しながら行っていても、必ずしもその期待通りにいくという保証はどこにもありません。

多額の資金を投入して万全の備えで事業に取り組んだとしても、途中で予想もしないような出来事に襲われ、その事業が失敗してしまうことも少なからずあります。

その場合、それまで営々として励んできたその人の努力というものは、いったいどのように評価されるのでしょうか。

また、大きな事業でなくても、数十年も会社のために尽くしてきたのに、いきなりリストラされたとしたらどうでしょうか。

結局、それまで成功を彼方に目指して働いてきたことの全てが、事業の失敗や失業などにより水泡に帰してしまうことになる訳です。

その一方で、私たちの人生には成功することもあります。

しかし、たとえ一定の成果をあげたとしても、その成功を通して本当にこれで十分であると私たちは言えるかどうか、ということがそこでは問題になります。

一つのことに真剣に取り組んでいる。

そのしている仕事の中で、ふと自分はいったい何をしているのか、たとえその仕事が成功したとしても、その事実の中でいったい何をしているのか分からなくなることもあったりします。

仕事をしているのは事実であるけれども、その仕事をしているということは、果たして何なのか、そういう疑問が湧いてくることがあるのです。

もしその問いに答えられないとしたら、それは積極的なあるいは生産的な生き方という姿をとりながら、それによって自らのいのちを削っているだけということになるのではないでしょうか。

言い換えると、むしろ生産という形において、自分のいのちを消費してしまっているのではないでしょうか。

もしそうだとすると、自分のいのちを消費してまで、ものを作って行く生産そのものが無に帰したとき、残るものは何かというと、結局過去へ自分の屍(しかばね)を積み重ねてきたに過ぎないという空しさだけだといえます。

日頃私たちが積極的な人生とか、生産的な生き方と考えていることが、こういうようなことを内実としているならば、そこにあるものは馬車馬的な労働と、刻々の不安があるだけだと言っても決して言い過ぎではないのかもしれません。

そして、そこから生きることの喜びを本当にくみとることは極めて難しいように思われます。

私たちは、一回限りの人生をいつも初めてのところへ一歩一歩、歩みを進めて生きています。

ですから、その中に新しい自分のいのちを生み出すような生き方に目を開いて行くことが出来れば、言い換えると現在に安んずるという生き方が出来れば、どんな生き方をしていても、明日何が来るか分からなくても、その中を生きて行き、そこに本当の自分というものを見出して行ける、いのちの充足感に満たされた生き方が出来るのだと思います。

幸福になったからといって有頂天にもならないし、また不幸になったからといって絶望の淵へとたたき込まれることもない。

いつでもそこに生きていくということの意味を見出すことが出来る。

着実に大地に足をつけながら、それを一歩一歩踏みしめていけるような生き方をしていけるところで得た喜びとは、いつまでも消えることのない本当の喜びなのではないでしょうか。

仏法とは、そのような自分を十分に尽くして行ける生き方を明らかにする教えだと言えます。