平成22年の1月より本願寺においては
「食事のことば」
(食前のことば・食後のことば)が新しくなりました。
「食前のことば」
◎多くのいのちとみなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。
○深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。
この
「食前のことば」
について以下の解説を通して味わってまいります。
「食前のことば」
■「多くのいのち」について
「多くのいのち」
と明記していることは、私たちの食事は多くのいのちをいただいているという事実を深く見つめるためにあります。
また、現代社会では
「いただきます」
ということばをあまり耳にしなくなったのではないかということへの反省でもあります。
たとえば、ごくわずかな人のことかもしれませんが、お金を払っているのだから
「いただきます」
と手を合わせる必要はないように考える人もいるようです。
ややもすると私たちも
「いただきます」
ということばを慣習的に発しているだけになってしまってはいないでしょうか。
そこに本当に感謝と慚愧の念がともなっているといいきれる人はどれほどいるでしょうか。
ここに
「多くのいのち」
と明言することで、私たちの日々の食事は多くの動植物のいのちの犠牲の上に成り立っているのであり、そのいのちへ感謝と慚愧を明らかに示すことになります。
私たちは多くの尊いいのちによって、今の自分が支えられている
「おかげ」
に気付くことで、感謝の心が育まれることでしょう。
■「みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました」について
「みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました」
ということばは、目の前の食事を直接調理してくれた人、そして食材をとったり、あるいは食材を運び届けてくれた人など、さまざまな多くの人たちのご苦労のおかげによることを示しています。
なお、従来の食事のことばには、
「み仏のおかげにより、ごちそうをめぐまれる」
という文脈がありました。
これは
「紙切れの一枚にいたるまで、仏さまのおかげと受け止める」
といった広い意味での仏恩と受け止めることができます。
しかし、特にはじめて聞いた方などは、
「み仏が食材を提供する」
というニュアンスで理解される方もいるかもしれません。
このように理解してしまうと、肉や魚も、人間の食用として神が造ったように考えるキリスト教などの創造主の概念と同じとなってしまい、これでは仏教ではなくなってしまいます。
ことに現代は、浄土も天国も同じように考えられてしまいがちです。
したがって、キリスト教など他の宗教と仏教の違いについて誤解されることのないような配慮が、これからもさまざまな場面で必要になってくるでしょう。
ここに言う
「みなさまのおかげ」
は、広く言えばみ仏の御恩をも含めた尊いおかげを言いますが、
「多くのいのち」
と並列・対句とすることで、
「多くのいのち」の犠牲と、
「み仏」
のおかげとは別であることを示し、み仏が創造主と誤解されることを避けています。
その上で
「多くのいのち」
ということばに、私たちの
「慚愧」
の思いを込め、
「みなさまのおかげ」
ということばには
「感謝」
の思いを込めています。
そしてこの二つを受けて、
「深くご恩を喜び」
と結び、食事を通して、単なる味覚ではなく
「ご恩」
を味わう機縁となることを願っているのです。
■「深くご恩を喜び」について
「多くのいのち」
と表明することで、多くのいのちをいただかなければ生きていけない私の本性的あり方に対しての慚愧のこころを呼び起こし、
「みなさまのおかげ」
と表明することでさまざまなおかげによって、いまこの食事をいただくことができ、生きていくことができることに対しての感謝のこころを呼び起こすことを目指しています。
慚愧や感謝のこころを持ち合わせていなかった私に、
「多くのいのち」
をいただいていることへの慚愧と、
「みなさまのおかげ」
によって生きていることへの感謝のこころを起こさせたのは、阿弥陀如来のお慈悲のはたらきによるほかはありません。
「深くご恩を喜び」
と表明しているのは、この阿弥陀如来のご恩、つまり仏恩を尊び喜ぶことです。
食事を通して、単なる味覚ではなく、阿弥陀仏の
「ご恩」
つまり仏恩を味わうことができる機縁となることを願っているのです。
[食事のことば]の意義
「食事のことば」
をつねに自ら声に出すことによって、食事はただ漫然と食物を摂り、栄養を補給するものではなく、目の前の食事には、そこまでに至る大きなおかげとめぐみがあることに気付きます。
そのことによって、ものの本当の価値を見出だす人間性が養われていくことになることでしょう。
以上のように
「食事のことば」
の解説を通してその中身を味あわせていただきました。
私自身、毎日こどもたちと一緒に
「食事のことば」
を唱和しておりますが、まさに慣習的になって、その中身をしっかりと味わっていなかった気がいたします。
今一度その意味をしっかりと確かめながら大切に唱和し、様々なおかげさまによって今生かされているこの身をありがたくいただくことです。
「食事のことば」
を通して、
「自分の力でいきているものは一つもない」
の法語を味わうことです。