投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『開発』

開発という言葉は

「かいほつ」

と読んで、如来を信じる心が起こること、真実の智慧が起こること等を表す仏教語です。

昔、お釈迦さまの教団に、シュリハンドクという仏弟子がいました。

彼は、自分の名前も覚えられないほど愚かでした。

だからお釈迦さまの教えなど体得できるはずはないと、彼は自分の愚かさを嘆いていました。

そのシュリハンドクに、お釈迦さまは一本のホウキを与え

「塵を払わん、垢を除かん」

と唱えながら、僧院の掃除をすることを教えられました。

「塵を払わん、垢を除かん」。

愚かなシュリハンドクは、何度も忘れそうになりながら、お釈迦さまに教えられた通り、その言葉を唱え、何年も掃除を続けました。

やがて彼の身体にしみこんだその言葉は、塵とは煩悩の塵であり、垢とは無明(真理に暗いこと)の垢であることを、シュリハンドクに教えたのです。

お釈迦さまの教えによって愚に徹し謙虚に徹したシュリハンドクは、自分に執着し自分を立てようとする無明の闇を破って、真実を見抜く智慧を開発し、立派な仏弟子の一人となりました。

インドの大地はホコリっぽく、風がひと吹きすれば、掃除など何の役にもたちません。

愚直なシュリハンドクの徒労とも思える生活は、真実を見抜く智慧の開発によって、全体が輝くような意味を与えられたのです。

人間生活のすべてが真実と相即していることを見抜くのが、仏教の智見です。

要するに、人生の全てが十分で満足なものであるといえる世界を開くのが真実であり、それを見抜く智慧を、シュリハンドクはお釈迦さまの教えによって開発されたのです。

科学技術の開発によって環境が整備され、お釈迦さまの時代よりもずっと豊かに見える生活に、何か不安を感じ、十分に満ち足りたものを感じられない現代の人々にとって、開発(かいはつ)と開発(かいほつ)、はたして本当に大切なのはどちらなのでしょうか。

『1Q84』や

『1Q84』や

『ノルウェーの森』

『海辺のカフカ』

などの長編小説で知られ、日本のみならず海外でも人気の高い作家の村上春樹さんが、今年の2月にイスラエルの文学賞

「エルサレム賞」

を受賞されました。

ちょうどその頃、圧倒的な軍事力を背景としたイスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの侵攻が国際的に非難をあびておりました。

この軍事攻撃によりパレスチナ側では、民間人を含む1,300人以上のいのちが奪われましたが、その大多数が一般市民であり、特に死傷者の3分の1が子どもであったといわれています。

この賞の受賞にあたっては、日本国内で市民団体などから、

「イスラエルの政策を擁護することになる」

と、受賞の辞退を求める声も上がっており、村上さん自身も大変悩まれたそうですか、その上で、

「あまりにも多くの人が『行かないように』と助言するのでかえって行きたくなった。

何も語らないより現地で語る事を選んだ」

と、授賞式の記念講演の冒頭で語っておられます。

また、

「体制」「制度」

を壁に、

「個人」

を卵に例えられて、

「わたくしが小説を書くとき常に心に留めているのは、高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵のことだ。

卵は壊れやすい殻に入ったそれぞれ独自の精神を持ち、壁に直面している。

どちらが正しいかは歴史が決めるにしても、わたしは常に卵の側に立つ。

壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか。」

と強調されました。

そして、

「その壁(体制・制度)は私たちを守ってくれると思われるが、ときに自己増殖して私たちを殺すようになったり、私たちに他人を冷酷かつ効果的、組織的に殺させる。」

と、イスラエルの軍事攻撃、またイスラエルが進めるパレスチナとの分離壁の建設を意識した発言をイスラエル政府高官の面前でされました。

この非常に勇気ある発言は、その会場でも大きな拍手をあびたそうですが、ただ単にイスラエル政府だけを非難、警告したのではなく、全世界に向けて、また村上春樹さん自身の今後の小説家としての再決意のような、非常に強くまた意味深い言葉であるように感じました。

わたくしたちは、ややもすると、その時々の自分の都合による自己中心的なものの見方に陥ってしまいがちです。

そういう意味では卵でもあり、時としてその卵に立ちはだかる壁にもなります。

もし、身の回りで差別や偏見で苦しんでいる人がいて、それに対して無関心であるとするならば、わたしも自覚しないところで大きな壁を支える一員になっているのかもしれません。

仏教を説かれたお釈迦様は、当時のインドのあつい壁(身分制度)をその思想に基づく言葉をもって打破され、わたくしたちの宗祖親鸞聖人は、厳しい封建社会の中で、既存の仏教界も封建制度というあつい壁にすり寄っていた時代にあって、常に民衆とともに卵の側であり続けようとされた人でした。

その教えの流れをいただくわたしたちにとって、受け継ぎ、伝えていくことの責任の重さを感じずにはいられません。

『精進くらべずなまけずコツコツと』

精進と聞くと、

「精進料理」

という言葉が頭をよぎるという方が多いかもしれません。

今では、魚虫鳥獣を食べないことの意味合いが強いですが、

「精進」

には宗教的生活を一途に生きるという意味があります。

一途に生きるとは、自分と向き合って生活することだと感じます。

自身を見つめ、自分を知っていく。

言葉では簡単に言えますが、実際の生活を振り返ると中々難しいです。

“他”と比べながらの生活を送っている姿があります。

“あの人はいいなぁ、わたしはどうして…”

“あの人よりは私の方が…”

他を羨み、比べながらの生活。

しかも、自分ではそのことに気づくことが難しいのです。

仏教の教えを聞くことは、鏡を見ることと似ていると言います。

鏡は“私”の外見を写してくれる働きがあります。

仏教の教えを聞くということは“私のあるがままの姿”を気付かせていただくのです。

自分と向き合うことが困難な私が、仏教を通して自らを知っていくことが大切なことなのです。

また、今月の言葉の“なまけずこつこつと”を見ていると、以前、友人に贈られた“頑張らない、でもあきらめない”という言葉を思い出しました。

はじめて聞いたときは何も感じなかったのですが、考えてみると味わい深いなと思います。

頑張らないとは、何もしないのではなく無理をしないことでしょう。

無理をすることなく、あきらめることなく生活を送る。

日常や仕事、学校生活、それぞれの人生の中でなまけることなく自分のできることを、自分のできる範囲で行っていく気持ちを持つことが大事だと思います。

仏教に耳を傾け、自らを知らされ自らと向き合いながら、他と比べることなく無理することなく自分らしい人生を送らせていただきたいものです。

「念仏の教えと現代」10月(前期)

現代という時代を一言で言えば、それは

「科学の時代」

ということが出来るのではないかと思われます。

では、科学の時代といわれるような現代にあって、なぜ宗教が必要なのでしょうか。

また、浄土経典に説かれる西方に浄土があるとか、南無阿弥陀仏と念仏を称えたならば仏になるというようなことは、子どもの頃から科学的なものの見方をすることを無意識に刷り込まれてきた現代の人々にとって、果たして信じるに足ることなのでしょうか。

このようなことについしばらく考えてみたいと思います。

現代の特徴は、科学的な知性によって誰もが人生を過ごしていることだといえます。

また、今日の繁栄は、科学技術がもたらした成果の積み重ねの上に成り立っています。

ところが、その科学時代の現代に、一方で非常におかしな現象がおこっています。

この現代が、科学の時代だというのであれば、科学の思想とは絶対に相反するところに位置する迷信は当然社会から消え去っていなければならないはずです。

にもかかわらず、ある種の迷信とも思われる宗教が、特に若い人々の間で盛んであったりします。

一時期はご利益信仰が非常に隆盛をきわめ、これを信じたらお金が儲かるとか、これを信じれば病気が治るとかいうことを説く教えに人々が集まりました。

もちろん、今でもそのような教えは決して廃れてはいませんが、それ以上に現代社会で注目されている宗教は、物質的なご利益とは少し違った、心の隙間を癒したり、あるいは得体のしれない不幸を除いたり、不安や恐れ、不吉なことを消すことを説くような宗教が非常にはやっているように見受けられます。

「いのちと向き合う」(上旬)人間は「死」がなければ、生きる気力もなくなる

======ご講師紹介======

福永秀敏さん(国立病院機構南九州病院院長)

☆演題「いのちと向き合う」

ご講師は、国立病院機構南九州病院院長の福永秀敏さんです。

昭和22年、鹿児島県南九州市生まれ。

昭和47年に鹿児島大学医学部を卒業後、神経内科に入局。

昭和55年から3年間、アメリカで研究に従事され、筋無力症候群の病態を世界で初めて明らかにされました。

昭和59年から国立療養所南九州病院に出向し、平成10年から病院長をお務めです。

この間、病院運営上問題となったことの解決のために、難病、筋ジストロフィー医療、在宅医療、ボランティアの組織化、医療安全対策などに取り組まれました。

また人間とのふれあい、対話によってその人が持つ問題に新しい意味を発生させ、解決していくという治療法を実践し、患者との強い信頼関係を築いておられます。

著書は『難病と生きる』『病む人に学ぶ』『早起き院長のてげてげ通信』など多数。

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例えば、突然にガンの告知をされたとします。

あるいはガンになって、いろんな化学療法や放射線療法、もちろん手術も含めて、さまざまな対処をしても、あまりうまくいかない。

治らないというような説明を受けたとしましょう。

もしそうなったら、ガンの患者だという事実はなかなか受けいれがたいことだと思います。

そんなとき、人はそれぞれ、どんな身の処し方をして現実を受けいれていくのでしょうか。

僕自身はガンになった経験がないので、これはやっぱりなった人にしか分かりません。

そこで、その方法を見ていくにあたり、僕にとってとても印象に残っている患者さんを何人か紹介していきたいと思います。

結論から言うと、やはり何かに打ち込んで一生懸命に生きるということが、その現実を克服し、かつ元気になる方法だと思います。

それと、世の中は人間の思い通りにはならない訳で、ずっと元気でいられるような人はいません。

そのことで逆に、人間が病気とか死を見つめたときになって、生きる勇気というのか、生の尊さというものが分かってくるのではないかと思うんです。

例えば、医者で作家をしている有名な人に加賀乙彦さんという方がいますが、その人の書かれた本で面白いと思ったことがあります。

なんでも死刑囚と無期懲役囚の人を50人ずつ、それぞれ調査を行ったそうです。

調査の結果、死刑囚の人たちはとても元気で活発だということが明らかになったそうです。

僕自身が直接目の当たりにした訳ではないんですが、朝から晩まで、一生懸命ソフトボールをしたり何かに打ち込んだりして楽しそうなんだそうです。

だいたい7時30分から8時30分の間くらいが、死刑執行の電話が来る時間で、その時間帯だけはさすがに気分が変わるらしいんですが、それ以外ではみんな元気がいいということです。

ところが、無期懲役の人たちの所に行くと、そこでは死刑がないかわりに、みんな何となく活力がありません。

誰もが無気力で、何もせずにだらっとしているらしいんです。

何を言いたいかというと、

「死」

というものがなければ、人間はそういう風に、生きる気力さえもなくなるんだということです。

このようなことが書かれていた加賀さんの本に、僕は

「なるほど」

と思ったことでした。

他にも有名星野富弘さんも

「いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」

と書いておられます。

つまり人間は

「死」

を見つめたときに、初めて生きる気持ちというか、生に対する意識も変わってくるんだということがいえる訳です。

それから、神経難病の患者さんを見ていますと、人間の幸せ感というのは、それぞれ違うというのがよく分かります。

どんな状態でも全部が不幸だというような人はいないんです。

筋ジス病棟とか、そういう所に視察に来ると、来た人はよく

「かわいそうだな」

ということを言うんですが、決して彼らはかわいそうではないんです。

けっこう幸せ感に満ちているんです。

患者さんが

「人間に生まれてよかって、生きてよかった」

と思う瞬間を物語として作っていくこと、それが僕たちの役目なんだと思っています。

そして懸命に

「今」

という瞬間を生きることが、死の不安への対応になるんだと思います。

南日本新聞の人がうちの病院の緩和ケア病棟を取材して書いた言葉に

「懸命に生きる。

支えられて心の平穏が得られるということに尽きるような気がします」

というのがありました。

僕は、いい言葉だと思います。

『歓喜』

多くの仏教経典には

「歓喜」

という言葉が出てきます。

仏教語では

「かんぎ」

と読みます。

よく知られている

「阿弥陀経」

の結びの部分には、お釈迦さまの説法が終わった時、その会座に集まって教えを聴聞していた人々が、みなことごとく歓喜したということが記されています。

 仏教では、特にお釈迦さまの教えを聞くことによって生ずるとされています。

それは、身も心も喜ぶということです。

親鸞聖人は

「歓は、身をよろこばしむるなり。

喜は、心を喜ばしむるなり」

と、述べておられます。

このように、心ばかりではなく、身の喜びが同時に得られているのです。

これはまことの信心の歓喜であると親鸞聖人は言われます。

 その歓喜は、煩いと悩みに満ち満ちた人が、一切衆生を平等に仏にならせようと願う如来の心を聞いて、それがまさしく自分に向けられた本願だったのだと自覚する時に生ずるのです。

それはそりまま一切の苦悩する衆生と共感し合える歓喜です。

 それに対して、私たちが喜ぶのは、ただ自分の欲望がかなった時ということが大半のようです。

したがって、その喜びは自分だけ、あるいは仲間内だけのものであったりします。

また、その喜びはしばらくも留まらず、すぐに憂いに転じてしまうものです。

それではまことの歓喜といはいいえません。

 私は欲望に満ちた身です。

けれども、その欲望をなくすることも出来ません。

そのことに気付かされ、凝視していくことの他には、真の意味での歓喜はありえないといえます。