投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

突然ですが、問題です!

突然ですが、問題です!

「正義の反対は何でしょう?」

以前、アニメの

「クレヨンしんちゃん」

を見ていた時、お父さんのひろしが、しんのすけに

「おい、しんのすけ。

正義の反対は何だ?」

と尋ねる場面がありました。

もしあなたがこのようなことを聞かれたら、何と答えますか?

ひろしは、しんのすけに

「正義の反対は、もう一つの正義だ!」

と教えていました。

普通、正義の反対は

「悪」とか「邪義」

といったような言葉が出てくるのではないでしょうか。

「正義の反対は、もう一つの正義だ!」

この言葉をよくよく考えてみますと、

「正義」

と対する者は、自らを

「悪」

だとは思っていません。

対する者も、自分こそ

「正義」

だと思っているのです。

このように

「正しい」と「正しい」

とがぶつかり合うことで、戦いになるのです。

まさに、自らを正義だと信じて疑わない

「善」と「善」

とが戦っているのです。

なぜ、そうなるんでしょうね。

それは、全部“自分にとっての善”だからです。

つまり、自分を中心とした善悪の考え方ですから、自分にとって良いこと・自分にとって悪いこと、自分にとって都合のいい人・自分にとって都合の悪い人といった具合に、ことや人も自分の都合でコロコロ変わってしまいます。

よく

「じゃあ、客観的に見ると…」

ということを口にしますが、どうでしょうか。

本当に、主観をまじえないで見ることが可能なのでしょうか。

今年から裁判員制度が始まりました。

もし縁があれば、人が人を裁く場に関わることになります。

善とは?悪とは?

考え深いものです。

『施設』

「施設」

という言葉は

「こしらえ設けること(もの)」

という意味から、一般に公の事業のなされる建物、なかでも社会福祉や司法福祉、あるいは医療などのサービスが行われている事業体に使われることが多いようです。

仏教で

「施設」

という場合、その言語をプラジュニャプティと言い、

「セセツ」

と発音します。

「施設」

とは

「実物(じつもの)/本当のもの、本来のもの」

の反対語であり、実在しないあるものを仮にあると設定することです。

その本来の意味は

「積極的に知らしめること」

であり、そういう点から、名称、観念、概念なども言います。

大乗仏教になると、そのことを

「言説(ごんせつ)」

という言葉で表現し、あらゆる存在は、人がそれを仮に存在するとして独断で名付けた幻想に過ぎないとします。

もちろん施設(しせつ)はなくてはならないものですが、あくまで手段であり、器に過ぎません。

そこでいかにすれば人間本来の生き方が出来るかということが大切です。

やはり

「施設依存」

という今日の社会の考え方は、仮のものであるという

「施設」

本来の意味に還って、もう一度反省してみる必要があるように思われます。

「施設」

という言葉そのものが、人間が本当の自分自身を見失ってはならないということを、現代の私達に教えてくれているようです。

『精進くらべずなまけずコツコツと』

一般に

「精進」

というと

「精進料理」

のことを思い浮かべますが、この言葉はお釈迦さまが初めて行った説法とされている

「八正道」

という教えの中で用いられた言葉で、

「正精進」

という言葉で説かれています。

この「八正道」

とは、私たちが歩むべき八つの道を示されもので

「正精進」の

「正」とは

「正しい」、

「精進」とは

「努力」

を意味しますから、

「正精進」とは

「正しい努力」

と解釈することができます。

では、この

「正しい努力」

とは具体的にどのような努力なのでしょうか。

「八正道」

で説かれている

「正」

とは、結果や損得を優先してしまうような私たちの身勝手な判断基準による正しさではなく、お釈迦さまの教えをよりどころとした偏りのない正しさのことをいいます。

したがって、

「正精進」

とは、結果や損得に振り回される必要のない自分を、その教えを通して見つけ出していく歩みのことだと理解することが出来ます。

ところで、私たちは自分が何か善いことをしたと思った時には、やはり他人からそれを認めてほしいとか、褒めてもらいたいというような気持ちがおこります。

そのため、そのことを無意識の内に他人に押しつけたり、主張したりしてしまうことがあります。

そのため、自分の努力や成果が期待通りに他人に認められなかったりすると、そのことでいろいろな心の迷いをおこしたり、時には他人を傷つけたりすることさえあったりします。

このように、どこまでも自分にとらわれる心を仏教では

「我執(がしゅう)」

と言います。

そこで、この我執をいかにして超えて行くかということが、また仏教の中心的な歩みともなる訳です。

確かに、自らの目標に向かって地道な努力を続けることはとても大切なことです。

ところが、私たちはその努力が報われないと、やはり空しい気持ちに心が覆われてしまい、気分が滅入ってしまったりします。

それは、他人との比較の中でその成果を確かめようとするからではないでしょうか。

精進という言葉が私たちに語りかけているのは、結果によってその努力の成否が定まるのではなく、正しいことに向かって歩み続けることの大切さなのではないでしょうか。

まさに、くらべず、なまけず、コツコツと積み重ねていくことこそ、とても尊いことなのだと思います。

「念仏の教えと現代」10月(中期)

また、浄土真宗のご門徒の方がご法事や研修会の場でよく質問されるのは、お仏壇のお飾りの仕方や、方角、置き場所など、あまり本質的ではないことが大半です。

このことは、今日の人々の心を支配していること、言い換えると人々が何を問題にしているかというと、結局仏教儀式においては、仏壇のお荘厳の仕方が最大の関心事になっているということです。

これは日本人の宗教意識の根底をなすといっても過言ではないあり方ですが、宗教についての最も強い関心事は、

「祟りを祓いのける」

という、その一点にあるといえます。

もし死者に対して、自分が間違いを犯したならば、自分の家族に、そして自分自身に何か悪いことがおこるのではなかろうか…、といった思いが常にあるのです。

作家の芥川龍之介は

「日本人には作りかえる力がある」

と述べています。

これは、日本人は外国から入ってきた仏教や儒教、キリスト教などをその都度受け入れてきたが、それは決して教えそのものを受け入れたのではなく、怨霊を鎮めてくれるものであれば何でも良かったということです。

例えば、奈良の大仏は純粋な仏教信仰からではなく、権力闘争で死んでいった人々の慰霊鎮魂のための舞台装置であったという見方などは、これによるものだといえます。

したがって、人々は今日いたってもなお怨霊あるいは死霊、亡くなった方の霊が自分達に何か悪いことをするのではないかということ常に心配しているのです。

そこで、災いを被らないようにするために、お仏壇の荘厳の仕方などが熱心に問われることになるのですが、残念なことにその一方で念仏の教えがなぜ真実なのか、念仏を称えるとなぜ仏になるのかといった、浄土真宗の教えの根本については、聞く人があまりみられません。

現代が科学の時代であるということは疑うべくもないのですが、知性に満ち満ちて、理性的に道理に即して生きるという姿とは全然違った、今ひとつの生き方が存在しています。

それは、まさに不吉だと思われること、あるいは霊の祟りだと他人から指摘されたこと、そういう事柄に対して必死になってお祓いをするという、科学的な知識からするとまるで問題にはならないようなことが、厳然として現代の社会で廃れないばかりかむしろはやっているという現象が生じていることです。

「いのちと向き合う」(中旬)“平静な心を持ちさえすれば、ガンも恐れるに足らず”

皆さんは、小橋建太という人をご存知でしょうか。

この人は有名なプロレスラなんですが、小さい頃から非常に苦労をして来られました。

両親が離婚されて、貧しい中で生きてきて、プロレスに活路を見出して頑張っていた最中に腎臓ガンになってしまったんです。

手術は成功しました。

その上で、この人は

「再発の恐れはある。

でも、何もせずに恐れながら生きて行くという選択肢は私の中にはない。

やりたいことをやって1、2年しか生きられなくてもいい。

私の中のポジティブな気持ちがネガティブな気持ちを少しだけ上回っている」

と言ったそうです。

自分の健康状態をしっかりと把握し、納得できるまで医師と対話を続けることを重視して、リングに復帰して必死に生きることを選んだ小橋建太さん。

僕は、この人は立派なレスラーだなと思いました。

僕はあまりプロレスの世界のことは知りません。

でも、こういう形で必死に生きることが、病気を克服する一つの満ちじゃないかと思います。

それから、皆さんもご存知の鳥越俊太郎さんですね。

この人も僕はすごいと思います。

それは、ガンに冒されても

「不安はありません。

だって取ればいいんだもん、そんなもの」

といえるところです。

ガンは間違いなく、大腸から肺から肝臓と、彼の体のいろんな所に転移しているんです。

でも、まだテレビにも出ていますし、生きていますよね。

おそらく不安はあったでしょうが、それでも

「闘うのではなく、付き合うべきもので、平静な心を持ちさえすれば、恐れるに足らず。

ガンを特別視せず、冷静に向き合えば、全く違ったものが見えてくる」

という心境に、その通りだと思いました。

こういう見方、生き方もあるんだなと本当に感心しました。

一方で、最近の抗ガン剤は非常に効くようになりました。

副作用もありますが、それを乗り越えたら、3年、5年、10年と生きている人もけっこういますし、完治する人もいます。

だからガンになったからといって、諦めるのは早すぎます。

一生懸命頑張って生きれば、次のステップというか、未来が開けるというのも事実なんです。

それから、僕にとって非常に印象的な患者さんを紹介します。

僕の義理の親父さんです。

ちょうど3年前の3月10日に口腔ガンで亡くなりました。

本人が医者でしたので、自分の症状はよく分かっていたようでした。

最期のときにも、自分で体のことはよく分かるらしく、頭は非常に鮮明でした。

それで

「点滴も何もしなくてもよか」

と言っていました。

これは、自分の病院だから言えたことなんですが、普通の病院ではなかなか出来ないことだったでしょうね。

『「永代経」というのは、どのような法要ですか?』

「永代経」

とは、

「永代読経」

を略したもので、これまで多くの時代を経て、永きに渡って読まれてきたこのお経(仏法)が、今この私に受け継がれてあることを喜び、また、これからのちも変わらず末永く、子や孫の世代までこのお経が伝わって欲しいという願いのもとに営まれる法要が、永代経法要と言われるものです。

先に逝かれた方々が大切にお聴聞されてきた仏様のみ教えを私もしっかりと聞かせていただき、次は私の姿勢として、聴聞する姿を、そして仏様のみ教えをのちの世に受け継いでいくという、言わば法の灯火、バトンを次の世代へと繋ぐ架け橋として、大きな流れの中に私も今いのちを頂いていると言わねばなりません。

「これまでに感謝し、そしていつの世までも」

生まれ難い中に人間としてのいのちを授かり、更には、聞き難い中で今、仏法に出遇う機会を与えていただいたことに感謝し、有縁の人々と共に仏さまのお話を聞かせていただくご縁と味わうことが、永代経法要を営む大切な心がけでありましょう。