投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『怖いのは 自分を省みる こころを失うこと』

9月の声を聞いてもなお残暑が厳しく、空が重くのしかかり途切れのない雨が降り出します。

この頃の雨を秋霖(しゅうりん)と言いますが、よく言ったもので雨の中に迷いこんだようで一層のけだるさを感じます。

やがて訪れた雨上がりに外に出ると、どこからともなく金木犀(きんもくせい)の香がほのかに漂ってきます。

車で足をのばすと、長雨の終わりを待ちわびた彼岸花がスクッと真っ赤に燃え立つ姿に出会います。

子どもの頃、この花の名を

「葉見ず花見ず」

と母から聞いたことがあります。

葉の時期と花の時期が別々で、一つの身でありながら、お互いにお互いの姿を知らないのです。

うっかりすると私自身が

「身体を見ていのちを見ず」

の生活の繰り返しになってはいないでしょぅか。

「10年一昔」

という言葉がありますが、今日では2〜3年サイクルで、次々と新しいものが登場してきます。

携帯電話に代表されるように、その進化はめまぐるしく、物事をゆっくり考えるということが出来なくなってきています。

時代に乗り遅れまいと、外側ばかりに眼を凝らし、気がつけば大きな流れに飲み込まれているのが現状です。

人としてあるべき

「こころ」、

自分自身を省みる

「こころ」

を、あなたはどこに置き忘れてはいませんか?

めまぐるしい時代を生きるお互いであればこそ、人間本来が持つ

「こころの響き」

を共に感じ合いながら、生きることが大切なのではないのでしょうか?

「親鸞聖人にみる十念と一念」9月(後期)

 ここにおいて、獲信者の念仏道が問われることになります。

その念仏は、信心を喜ぶ感謝の声であることはいうまでもありませんが、同時にこの念仏は、いまだ念仏を知らず、迷い苦しむ人々に対する念仏の伝道になります。

あたかも自分が念仏の行者から、念仏の真実功徳を聞いて、念仏者に導かれたように、自分もまた、迷い苦しむ人々に念仏の真実功徳を説法するのです。

これが獲信の念仏者の伝道であり、このような仏道を歩む者が、真の仏弟子と呼ばれるのです。

『無量寿経』にみられる、十念・一念の語は、浄土教者にとって、自らの往因を決定せしめる重要な思想であり、その

「念」

の内実は、完全に同一でなければなりませんでした。

ところが親鸞聖人の思想においては、本願の十念は称名、成就文の一念は信心、弥勒付属の一念は称名と解釈されていて、この三カ所の念には、同一性が見られませんでした。

その親鸞聖人の

「念」

の解釈が、なぜ『無量寿経』や善導・法然教学における、十念・一念の思想と矛盾しないかが問われたのでした。

浄土真宗の教えでは、私の往因は、獲信の一念に決定し、その獲信は弥陀の名号を聞くことによって得ます。

その弥陀の名号は、念仏者の説法によって聞かされ、その説法の内容は釈尊が説いておられる弥陀の名号の功徳です。

そしてその名号は、弥陀から釈尊に伝承されました。

これを阿弥陀仏の救いの構造としてみれば、阿弥陀仏は一切の衆生を救う大悲心を成就されました。

それが第十八願の信楽であり、十念とはその信楽が南無阿弥陀仏となって十方の世界に響流されているすがたです。

弥陀と釈尊が相念じあわれることによって、この名号が釈尊の心に映じ、釈尊はこの大悲心こそ、釈迦国土の一切の衆生を救済する唯一の仏法であると覚知され、自らの出世本懐の法として、南無阿弥陀仏を一声称え、その名号の真実功徳を説法されたのです。

この説法が、第十七願の諸仏称名であり、弥勒付属の

「乃至一念」

です。

こうして、一切の衆生を摂取する阿弥陀仏の大悲心が、一声の念仏となって、衆生の心に徹入するのです。

この

「念仏を称えて往生せよ」

との念仏の法門が、七高僧を通し親鸞聖人に伝承され、親鸞聖人によって説法された弥陀廻向の法が、称名となっていま私に聞こえているのだといえます。

その念仏は、弥陀の南無阿弥陀仏(本願の三心と十念)、釈尊・七高僧・親鸞聖人の南無阿弥陀仏(付属の行の一念)が、今まさに私の心に響いて、私の心と呼応しているのです。

ここに成就の一念が求められるとすれば、成就の一念はまさしく、私が聞信する

「信の一念」

でなければならないのだといえます。

「いのちの真実」(下旬)それでも我が子が死んでいくというのは怖かった

 世の中にはいろいろな宗教があります。

そして

「死んだ後のこと」

については、それぞれの教えにおいてそれなりに受け止められています。

ですから、ちゃんとその教えを信頼できるならば、死はさほど恐れる必要はありません。

また

「死んでいく」

という出来事も、やはりそれらの教えの中できちんと答えが出されておりますから、そこにおまかせすることが出来たならば、死んだ後のことと同様、そんなに恐れるほどのことでもなくなるのでしょう。

私はそれが納得できました。

しかしその上でなお、我が子が死んでいくというのは怖かったんです。

この怖さはどういうことなのか、私はそれを見つめていかなければなりませんでした。

そして

「死」

という言葉の恐ろしさは死そのものにはなく、何の準備もなく生まれてきてしまい、何もわからないままに生き続けているという、

「生」

の宙ぶらりんさ、不気味さ、得体の知れなさ。

すなわち

「生きていること」

の恐ろしさを暴いてしまうところにあるのだという考えに至りました。

逆に言えば、死んでいくことをただ怖がるだけでは、生きるということはおぼつかない訳です。

ですから、死ときちんと向き合うことで、宙ぶらりんでしかないこの我が生を、くっきりしたものとして受け止められるようになるんです。

死ぬのは嫌だと言うふうにおっしゃる方は多かろうと思いますが、きちんと死に切ることが出来たならば、それはこの上ないことではないでしょうか。

死ぬのが嫌なのではなくて、死に切れないから、死が恐ろしい。

生きていることが苦痛になってくる。

そういうことなのではないかと思います。

死そのものが怖いのではないんですよ。

一番怖くて、一番目を向けていかなくてはならないのは、訳のわからないところで、気がついたら生まれてしまっていたという

「生苦」

であり、そのことを引き受けつつ、なお生きていかなければならないということなんです。

生きていることの方が恐ろしいとは、そういうことなんだと思います。

「死後」

の解決は問題ではありません。

「今」

生きているということをどう見つめ、どう引き受け、そしてどう解決していくかが一番大きな問題だと言えるでしょう。

『「占い」が気になって仕方がないのですが?』

 もはやブームを通りすぎて、完全に私達の生活に定着している

「占い」。

あなたも一度はその占いを信じて、その内容に一喜一憂したことがあるのではないでしょうか。

一言で占いといっても、手相占い、動物占い、血液型占い、星座占いetc…、あげていくとキリがないくらいにたくさんの種類がありますね。

テレビや雑誌、新聞でも毎日のようにとりあげられているほどの盛況ぶりです。

 この占いにはいろいろな種類がありますが、それと向き合う人々に共通していることは、自分にとってのメリットを求めていること、または占いでいわれる行為をすることで、嫌なことやデメリットを回避することだと言えます。

ところで、私たちはなぜ占いに頼り、その言葉を信じてしまうのでしょうか。

人生の岐路に立った時、進むべき道を決めるのは本来自分であるはずなのに、その大切なことを自分以外の他に求めてしまう、すなわち占いにゆだねてしまうのは、そのことを身近に伝え相談する相手がいない…、つまり心から信じられる仲間や信じ得る世界を見出せないあり方によると考えられます。

 確かに、占いの言葉に頼ることで、仮にその場はしのげることがあるかもしれません。

けれども、老・病・死と言った人生の根本問題に直面した時には、それらにどう向き合っていけばいいのでしょうか。

他人にはゆだねられない、誰にも変わってもらうことができないのが自分の人生です。

それを見通し、判断して行ける確かな眼(まなこ)を持つことがやがて必要になってくるのではないでしょうか。

 浄土真宗では

「深く因果の道理をわきまえて、現世祈祷やまじないを行わず、占いなどの迷信にたよらない」

と言われている通り、占いなどの迷信にはたよりません。

宗祖の親鸞聖人が関東へ行かれた時、関東では迷信呪術が生活に根付き、病気や苦しみも全て狐・狸などの憑き物によるものであるという価値観が常態化していました。

これをみた親鸞聖人は祈祷や占いによって病気が治るものではないということを説いてまわられたと伝えられています。

親鸞聖人が加持祈祷を否定されたのは、その苦しみあえぐ人々を想う慈悲の心からで、そのような苦しみの要因を自ら受け止め、かつ共感し、真実に目をむけることの中にこそ、何ものにもさまたげられることのない、真実の生き方があることを明らかにしようとされたからです。

かけがえのない、大切な1度きりの自分の人生です。

その人生を、他人の言葉(占い)に委ねてしまうのは寂しい気がしませんか。

上手くいってもいかなくても、自分が選びとってこそ、すべての歩みがあなたの人生を彩ることになるのです。

先日、”自分らしさとは何か・・・”というテーマで研修会がありました。

先日、”自分らしさとは何か・・・”というテーマで研修会がありました。

全国から若者が集まり、いくつかのグループに分かれて話し合いました。

自分を改めて見つめるとても良い機会でした。

そこでは、さまざまな意見が出ました。

一人の男性は職場で上司、部下関係なく職場に対する不満や期待を全員で話し合う

ミーティングがあるそうで、中には泣きながら意見を述べる人もいるそうです。

彼は思ったそうです。

職場でこれだけ話合いをして、良い所も悪い所も全てさらけ出しても会社での自分でしかなれない。

友達と遊んでいる自分、家族・恋人といる自分とは違うと思ったそうです。

確かに職場は職場であって、友達は友達であってその環境に適応していかなければいけない。

そこで自分らしさを出しても色んな問題は解決しないと思います。

悩んだり、傷ついたりするくらいだったら自分を抑えて生きていったほうがイイっと思う人もいると思います。

それもまた”自分らしさ”じゃないかな!?っとも思います。

以前、私が悩んで落ち込んでいる時に友人が

「あんたらしくないよ!」

っと言われた事があります。

その時私は”私らしいって何???”っと思い、友人に尋ねました。

友人は私の”私らしさ”を言ってくれました。

自分でも気づいてなかった”私らしさ”がたくさんあって驚きました。

(変な話ですが・・・)

その時思いました。

確かに自分らしく生きるというのは難しい事が多いと思います。

色んな壁にぶつかって、傷ついて、もうダメかも・・・っと思うのも自分らしく生きようとした結果で、素直に受け止めて少しずつ進んで行けば良いと!!!

常に自分らしく生きよう!なんて思って生活してないですよね??

何か環境の変化があった時に自分らしくあってほしいです。

私も今よりもっと”私らしさ”を増やしていけたらいいなぁっと思っています。

『肉眼(にくげん)』

 何気なくつかう言葉に

「肉眼」

があります。

肉眼はかたちあるものを見てとる眼のことであり、見るという意味が含まれています。

肉眼で見えない繊細なものを顕微鏡で拡大したり、肉眼で見ることが出来ない遠方のものを望遠鏡でとらえる。

このように

「見る世界」

の言葉として使われています。

 肉眼は仏典に根拠があり、

「にくげん」

と読んで五眼のひとつとして教えられています。

この五眼とは肉眼に始まり、次に天眼、その次に慧眼、その次に法眼、最後に内面的世界に開かれた仏の眼を持つことを仏眼といいます。

また、五眼のそれぞれに優劣をつけないこともあります。

 私たちは外見より内面、そして真実をみることが大切なことは道理として知っています。

しかし、外見に惑わされながら生きているというのが正直なところで、そのような私達の常用語として肉眼だけが使われているのは皮肉なことだといえます。