投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『怖いのは 自分を省みる こころを失うこと』

 私たちは、自分のことは誰よりも一番自身がよく知っていると思っています。

しかも、自分の中に正しい私がいて、その正しい私が物事を見て、考えて判断を下しているので、私の言動は常に正しいことに包まれているかのように思っています。

 そのため、周囲の人が自分のことを認めてくれなかったり、あるいは社会的にも評価をされなかったりすると、周囲の人々をあるいは世間を恨んだりしてしまうことさえあります。

 けれども、私たちはいったいどれほど自分のことを客観的に見ることが出来ているでしょうか。

既に

「分かっている」

という思いからは、決して

「問いの心」

は生まれてはきません。

それだけに、私たちはともすれば自分だけの思いに閉じこもってしまい、自らを省みることがなかなか出来ないでいるのです。

 しかも、周囲の人々もなかなか本当のことを口にしてはくれません。

それは自分でも他人に対してあまり本当のことを言わないのと同じことです。

なぜなら、私たちは誰にでも欠点があり、決して立派ではなかったりするからで、このような意味で

「いつも本当のことを口にしている」

という人はおそらく友だちが少ないのではないでしょか。

 仏さまの教えとは

「この私を明らかにするために説かれ教えだ」

ということが出来ます。

そうしますと、そこで明らかになる私の姿は、愚かで自己中心的で、迷いに満ち満ちたなんとも情けないありさまです。

 したがって、自ら進んで仏さまの教えに耳を傾けるということは、なかなか容易なことではありません。

他人の悪口は嘘でも面白いものですが、たとえ本当のことではあっても自分について耳の痛いことを聞くのはなるべく避けたいものだからです。

 しかしながら、そのことを避けようとするばかりでは、いつの間にか自分の姿を見失ってしまうことになりかねません。

自分を省みるこころを失ってしまうとき、私たちは自分のあるべき姿そのものを見失ってしまうことになるからです。

 自分のあるべき姿を見失わないためにも、努めて仏法の語りかけに耳を傾けたいものです。

「親鸞聖人にみる十念と一念」9月(中期)

 さて、ここで今一度

「聞」

の意味を確かめてみます。

誰が一体、誰から何を聞くのでしょうか。

この聞の主体は、どこまでも自分自身でなければなりません。

私は、罪悪生死の凡夫であって、無明の世界を永遠に流転し続けています。

その苦悩と恐怖を知ることによって、なんとしても、この迷いを破って、覚りの世界に生まれたいと願います。

その願いが自らの心を仏法に向かわしめるのです。

このようにして仏道を学び、一心に行道に励むことになります。

けれども、私の心からは迷いは何ら消えず、かえって苦悩は増すばかりで、結局、絶望へと陥ってしまうことになります。

 では、このような私にとって、いま最も必要な仏法とはどのような教えでしょうか。

それは、苦悩のどん底にあえぐ私を、直ちにそのまま悟りに至らしめる仏法です。

そこでもし私が、この苦悩の中で、念仏の法門に出遇うことができれば、どうでしょうか。

念仏の行者が、念仏を称えつつ、釈尊によって明らかにされた

「南無阿弥陀仏」

を説法します。

弥陀の大悲は、苦悩するその者こそを救おうとしておられます。

そのためには、何よりもまず、弥陀ご自身がその者の目の前に現れ、この者の心を弥陀の浄土に向かわしめて下さる。

そこで念仏の行者が、この私に念仏を称えさせ、称えている念仏について、この南無阿弥陀仏こそ、私を摂取するための阿弥陀仏からの呼び声だと説法されるのです。

 こうして私は、南無阿弥陀仏を称え、その法を聞くことによって、弥陀の大悲に出遇います。

阿弥陀仏がいかにして本願を建立し、大行・大信を成就して、私の心に徹入しているか。

念仏して弥陀の浄土に往生せよと願われている、弥陀の声をそのごとく聞く。

この仏願の生起本末を聞き、自分がまさしく本願に摂取されていることに、疑いの余地がなくなった瞬間が、信楽の開発される時剋の極促であり、広大難思の慶心を慶心が顕彰それる時で、まさに私における聞が成就される

「信の一念」

です。

 では

「信の一念」

「乃至一念」

は、どのように関係するのでしょうか。

信の一念は、信楽を獲得し、真実の一心がこの者の心に開かれる瞬間です。

そして乃至一念は、その真実信心の相続を意味しています。

では信心の相続とは何でしょうか。

ここで

「聞其名号、信心歓喜、乃至一念」

の意味が再び問題になります。

信心歓喜は、名号を聞くことによって生じています。

名号を聞くとは、南無阿弥陀仏を称えて往生せよ、という弥陀の声を聞き信じて、その勅命に信順することです。

この点を、親鸞聖人は

「真実の信心は必ず名号を具す」

と説かれます。

名号を聞いて真実の信心を得たのですから、その心には当然、名号は具せられているのです。

しかもその声は、念仏せよとの勅命です。

そうすると、この

「乃至一念」

にみる信の相続とは、ただ念仏のみの仏道ということになります。

「いのちの真実」(中旬)「死んでいく」と「生きていく」ことは表裏一体

いきなりそんなことを言うと戸惑われるかもしれませんので、私自身が味わわせていただいたところをご紹介しましょう。

私には3人の子がおります。

今から2年以上前のことですが、上から2番目の男の子を、本人が中学3年生のときに、小児ガンで亡くしました。

3年間病気とつきあいましたが、ずっと入院していた訳ではありませんでした。

大きな手術を3回受けておりまして、その前後、短いときで4カ月、長いときで半年ぐらいの入院が3回でした。

ですから3年のうち、半分ほどが病院の中、残りの半分は普通に学校に通っていたというような状況だったんです。

病気が病気でしたので、最初の入院のときはさんざん右往左往したものでしたが、後になって振り返ってみれば、まだ平和なものでした。

なにしろ目の前にいたのは、ごく普通の男の子だったんですから。

とはいえ、放っておいたら大変な病気ですから手術をし、抗ガン剤の治療が施されました。

ですがこの最初の入院、手術、そして抗ガン剤治療のときはその実感がわかず、治療が終われば元通り元気になるものだと思ってのんきに過ごしていたんです。

しかし転移が見つかって話が変わりました。

転移は、既にガンが体中に散らばっているということと、抗ガン剤が十分に効いていなかったという2つの意味を持つからです。

そうなると、ガンという病気が非常に重く感じられるようになります。

最初は良くなるという前提で眺められた治療も、効果があるのは4人に1人ということで、先の見通しができなくなっていました。

そうして、肺だけでなく体中が検査にひっかかるようになり、我が子が死んでいくというのはどういうことなのかを、目をそらさずにきちんと見つめていかざるを得なくなったんです。

「死んでいく」

ということを仏教的に捉えようとするならば、それは

「生きている」

ことと表裏一体になります。

それを受け止め、納得し、死んでいくことを理解するために、私あえて生きているとはどういうことなのかを追究していきました。

そして、生きている姿というのは形を取り続けていること。

固まり続けている姿だと考えました。

例えば生物がケガをしたとき、治療の要不要はあれ、傷口はふさがるものですよね。

そうやって、この体というのは同じ形を取り続けているんです。

一方、自動車などが傷ついた場合、修理しない限り、直ることはありません。

私たちの体は生きているから治る訳ですよね。

このように、ある形を取り続ける姿が生きていることだと、今では理解させていただいております。

そうであるならば、

「死んでいく」

という出来事は、形を保つご縁が尽きて、生きている形がほぐされていくことだと受け止めることが出来ます。

それは形あるものが崩れて、ばらばらになることのように見えますが、逆に言えばかたくななものが柔らかくなるということだと言えるでしょう。

例えば、私たちが今、真っ暗で冷たいものの真ん中に経っているとするならば、自分の形を保てなくなる

「死んでいくむときというのは、何も残るもののない終わりを示すことになってしまうでしょう。

しかし浄土真宗では、いま私たちは

「大きないのち」

の上に立っていると受け止めます。

そうすると、かたくなにあり続けるご縁が尽きることは、自分というこだわりの方がほぐされて、そのまま

「大きないのち」

に帰っていくということにつながる訳です。

『どうして「お彼岸」にお寺まいりをするのですか?』

 いきなり

「お彼岸ってどんな日?」

とたずねられると、思わず返答につまってしまうことってありませんか。

中には自信満々で

「お墓参りをする日のこと」

とおっしゃる方もいたりします。

この時期になると、何気なく口にしている

「彼岸」

という言葉も、意味をたずねられると案外

「答えられない」

という人も多いのではないでしょうか?

 

「彼岸」

とは、読んで字のごとく

「彼の岸」

のことです。

これは煩悩でよごれきった

「此岸(しがん/この世)」

に対する言葉で、清らかなお浄土の世界を指し示す言葉です。

親鸞聖人が七高僧としてあおがれた善導大師の

「観経疏」

という書物の中に

「その日、正東より出でて、直に西に没すればなり。

弥陀の仏国は日に没するにありたり」

とあります。

お彼岸には太陽が真東から昇り、真西に没することから、西方十万億土にあるという極楽浄土を偲ぶという習慣が我が国に古くから定着してきました。

この行事は日本以外にはどこにもない仏教行事だそうで、古くは平安時代からすでに行われていたと言われています。

「観察(かんそう)」

という行法があります。

これは真西に沈む太陽の彼方にあるお浄土を、心をこらして観じようとする行のことです。

これを受けて、お彼岸の日中と前後の三日を含めた七日間は、お浄土をしのぶ

「仏教週間」

として、日本人の生活に定着してきたわけです。

お彼岸にお墓参りをすることは、そういう清らかなお浄土に往生されたご先祖や亡き方を偲んで行われるようになったあり方と考えられます。

 ではなぜお彼岸にお墓参りだけでなく、お寺参りをするのでしょうか。

このようなお彼岸のいわれにちなんで、お彼岸には浄土真宗のどのお寺でも仏さまのお徳と仏国土をたたえる彼岸会という法要がつとめられます。

お寺参りをし、先祖や亡き方を偲び、感謝することによって、阿弥陀如来への報恩感謝を捧げているのです。

お彼岸の意味にちなんで、先祖や亡き身近な方に感謝し、お寺参りをすることで、浄土をしのぶ尊いご縁にしていきたいものですね。

『彼岸』

 

「暑さ寒さも彼岸まで」

といわれます。

厳しい残暑も秋の彼岸になれば衰えて過ごしやすくなり、余寒も春の彼岸の頃には薄らいできます。

春分の日と秋分の日を中日として、それぞれ前後の七日間を彼岸といい、その期間中に行われる法会を彼岸会といいます。

彼岸会の風習は、インド・中国には見られず、日本のみ行われ、その起源は古く、聖徳太子の頃とも言われます。

盂蘭盆会と共に最も民衆化されて、人々の生活に溶け込んだ仏教行事のひとつです。

 彼岸会は、日常の生活を反省して正しい精神生活を送るために、仏の教えを聞き、仏道精進の機会として生まれたものと思われます。

それは、春分と秋分には、日が真東から出て真西に没するので、その日没を観じて仏の世界、すなわち彼岸の浄土を念想し、浄土に生まれることを願ったことに由来します。

「観無量寿経」

の中に、

「汝および衆生、まさに心を専らにし、念を一処にかけて、西方を想うべし」

と説かれています。

中国浄土教の大成者・善導大師は、西方の日没の観想から説かれていることについて、それは

(1)人生の帰すべき方向を象徴的に教え示すものであり、

(2)日没はまた、浄土の方向のみでなく、人間の罪障の深重を知らしめ、

(3)かえって阿弥陀仏とその浄土の光明に、この身が照らされていることを知らされる、

と教えておられます。

日没の観想に、浄土という人生の拠り所を学ぶのです。

 親鸞聖人は、彼岸、すなわち真実の浄土とは、仏の大悲の誓願によって完成された無量光明土、限りない光の世界であると明かしておられます。

残暑が続くなかにも秋の気配を感じさせるこの頃となりました。

残暑が続くなかにも秋の気配を感じさせるこの頃となりました。

振り返ると、今年の夏は、各地で豪雨災害がおき、亡くなった人や家を失った人もいました。

ふと、私は数年前に自分の町でおきた豪雨災害を思い出しました。

その時も数日間、今までに体験したことのないような大雨が続いたため川が氾濫し、多くの家が浸かりました。

幸い、亡くなった人はいませんでしたが、私の知り合いの家や会社の事務所が水に浸かり多くの被害が出ました。

災害の後、高校生や地域の人々がボランティアで災害の後始末をしたことを覚えています。

何故、このような異常な気象が続くのでしょうか。

今年も梅雨明けのあと、毎日のように雨が降り続くので、その理由を考えてみました。

まず原因として浮かんだのは、地球温暖化などの環境問題です。

よく、ニュースなどで、温暖化の問題が取り上げられていますが、いつも

「自分の身の回りのことではない」

と、まるで他人事のように考えていました。

けれども、自分自身の回りで温暖化が原因と思われる災害が起きたとき、これは他人事でなく自分の問題でもあると気づきました。

そして、それからは環境に関する問題や温暖化を防ぐために、自分でまず出来ることは何かなと考えるようになりました。

ただ、頭では分かっていても、実践となると急にはなかなか思い通りにはいかないものです。

つい、水を出しっぱなしにしてしまったり、電気を付けたままにしてしまった時など、あれほど自分は環境問題のことを考えていたのに…と反省しますが、それも少し時間が経つと忘れてしまいます。

しかし、考えてみますと私達はいろいろなことを忘れてしまうのが日常のすがたです。

辛かったこと、悲しかったこと、腹を立てたことなど、いつまでも覚えていたのでは大変だからです。

もちろん、大切なことまですぐに忘れて良いというのではありません。

けれども、その大切なこともしばしば日常の忙しさにまぎれて忘れてしまうことがあります。

だからこそ、私たちは何度も聞き、繰り返し学ぶ必要があるのではないでしょうか。

確かに、大きなことをすぐに成し遂げるのは難しいことです。

だからといって、すぐに諦めてしまうのではなく、まずは無理をすることなく、自分に出来ることから焦らずに続けていくことが大切なのではないでしょうか。

深刻な社会問題化している温暖化の問題も同じように、先ずは自分の出来る範囲のことから、地道にそして続けていくことが大事なのではないかと思います。