投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『怖いのは 自分を省みる こころを失うこと』

平成21年9月(前期)

「宗教」

とは、西洋の

「religion(レリジョン)」

という言葉を翻訳した言葉です。

その

「religion(レリジョン)」

にはいくつかの語源解釈がなされていますが、その1つは

「再び注意深く見直す」

という意味に解釈されています。

「仏法はわたしのこころをうつす鏡」

とも言われますように、仏教は特に浄土真宗はこの

「再び注意深く見直す」

という解釈がピッタリ合う

「宗教」

であり、またそれが

「宗教」

の基本であると思います。

「再び注意深く見直す」

それはもちろん他の人様の事ではありません。

そのお法(みのり)に今、出遇っている私自身のことです。

また

「再び」

ですから、ご縁に遇うその都度その都度という事でもあります。

当たり前だ、当然だ、と思っていたことをその都度立ち止まって、本当にそうなのだろうか

と、振り返って見直してみる。

朝、目が覚めた。

「そんなことは当たり前だ」

と、私たちは思ってしまいがちですが、

お互いに目が覚めなくなる朝は必ずやってきます。

しかし、今朝も昨日までと同じように目が覚めた。

今朝、目覚めなくても不思議ではない

のに、今日も目が覚め、多くの不思議なご縁によって、このいのちをいただいたのです。

だから朝、お仏壇に手を合せるのです。

当たり前だと思っていたことが、当たり前ではなかった。

有ることが難しいいのちを、今朝、またいただきました。

有難うございます、と。

しかし、自分を省みたり、振り返るこころを失い、何もかもが当たり前だ、当然だという慢心が、自分自身のいのちを軽んじ、他のいのちを軽視する見方へとつながっているように思えます。

昨今の環境破壊、金融危機にはじまる世界的な不況等は、自分中心のただ欲望に身をまかせたようなありかたが引き起こしてしまった結果ではないでしょうか。

そのような危ういわたしだからこそ、

「再び注意深く見直す」

ということが基本になっている、まことの

「宗教」

が必要ではないかと思います。

「親鸞聖人にみる十念と一念」9月(前期)

『一念多念文意』

に、この成就文の意味が詳述されています。

それによれば、

「その名号を聞く」

とは、本願の名号を聞くことであり、その本願を聞いて疑う心がまったくなくなることを

「聞」

といい、それは信心をあらわす言葉だとされます。

そして

「信心歓喜せんこと乃至一念せむ」

については、信心とは、如来の御誓いを聞いて疑う心がなくなることであり、歓喜とは身をよろこばしむること、喜は心をよろこばしむることで、やがて必ず得ることを、あたかもすでに得てしまっているように、先に喜ぶ心だと理解されます。

乃至は、多少・久近・前後すべてをかねる言葉であり、一念とは、信心を獲る時の極まりをあらわす言葉だと述べられます。

そしてこの

「一念」と

「聞」については

『教行信証』では、

 一念とは、信楽開発の時剋の極促を顕はし、広大難思の慶心を彰はすなり。

 経に聞と言ふは、衆生仏願の生起本末を聞きて、疑心あることなし、これを聞と曰ふ。

と説いておられます。

「至心に廻向したまへり」

については、至心とは真実ということで、この真実は阿弥陀仏のお心であり、廻向は、本願の名号を十方の衆生にお与えになっておられる、教法そのものである。

「かの国に生れむと願ず」

るとは、かの国は弥陀の浄土であり、生れむと願ずるは、阿弥陀仏が一切の衆生に浄土に生れよと願われている。

その願いに信順し、まさに自らの全体が、浄土に生まれたいとの願いにつつまれることである。

「すなわち往生を得」の

「すなわち」は、

その瞬間ということ。

「得」

とは、必ず得るであろう仏の法の功徳を、いま得たということで、弥陀はその衆生の往生をこそ願われている。

したがって、衆生が真実の信心を得て、往生を願う瞬間、阿弥陀仏はその衆生を摂取し、決して捨てられることはない。

この故に、獲信するその時に、この衆生は正定聚の位に定まるのである。

そこで法の道理として、念仏者の往生し、仏になるべき功徳を得て、正定聚に住することを

「往生を得」

と釈尊がおっしゃられていると、親鸞聖人は解釈されるのです。

「いのちの真実」(上旬)生きていることの方が恐ろしい

======ご講師紹介======

 有國智光さん(長久寺住職)

☆ 演題「いのちの真実」

ご講師は、山口県長久寺住職の有國智光さんです。

昭和32年、山口県生まれ。

山口県立徳山高校を卒業し、東京大学文学部、同大学院人文科学研究科修士・印度哲学専攻を修了。

平成3年、浄土真宗本願寺派長久寺住職を継職。

学校の研修会や一般の講演会などの講師として活動されますが、平成18年12月、当時中学3年生だった次男の有國遊雲さんを小児癌で亡くされました。

その後「生」と「死」を深く考察し『遊雲さんと父さん−小児がんを生きたわが子との対話』を著されました。

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仏教には四苦八苦という言葉があります。

四苦とは、生・老・病・死の四つの苦しみですね。

「老苦」

は老いの苦しみ、

「病苦」

は病む苦しみです。

死んでいく苦しみの

「死苦」

については、はっきりしていて混乱する点はないでしょうか。

しかし、最初の

「生苦」、

これは実は生きる苦しみではなく、生まれる苦しみのことなんです。

生きる苦しみならまだ分かる気がするでしょう。

しかし、生まれる苦しみと言われたのでは、どこかピンときにくいんじゃないでしょうか。

実際、私自身がそうでした。

ですが、年を重ねてくる中で、最近はなるほどと頷けるようになってまいりました。

ですので、そのあたりからお話を進めさせていただこうかと思います。

私はおっちょこちょいで、忘れ物や失敗したことなどはたくさんあります。

しんし、実は私たちは皆、一人残らず取り返しのつかない大失敗をしているのです。

その失敗とは

「何の準備もないまま生まれてきてしまっている」

ということなんです。

生まれてきた以上、生物は必ず死にます。

そして、死ぬというご縁が整うまでは生き続けなければなりません。

生きるということは刻一刻と病み、老いていくことです。

あるいは、そのまま他のいのちを頂いていくことだと言えるでしょう。

出発まで何野準備も出来ず、気がついたら生まれてしまっていた。

それが生まれる苦しみであろうかと、今は受け止めさせていただく次第です。

また、最近では話をする中で

「人は必ず死ぬんですよ」

という言い方では、受け付けてもらえない人も増えています。

理屈では確かに死亡率は100%ですし、その通りだとは思われるんですが、結局自分がその立場に立たされるまでは、自分とは無関係に思っていらっしゃる方が多いように感じますね。

ですから、必ず死んでいくんですよという伝え方ではなく

「残念なことに、気がついてみたら、何の準備もないところで生まれてきてしまっているんですよ」

という、生まれてきた失敗を投げかける方が、みなさんには自分のこととして受け止めやすいように思います。

さて、その生まれてきたという大きな失敗、というよりむしろ大きな謎ですね。

これをどのように引き受けていくかを突き詰めていくことが、

「いのちの真実」

というテーマにとって、一番重要なことになってくるのではないかと思います。

ここでは、仏教の立場から話を続けさせていただきましょう。

ここではあえて、

「死」

の側から見つめさせていただきたいと思います。

死と言うと嫌がられることが多いですが、それはなぜでしょうか。

「死んだらどうなるのか」

「なぜ死ぬのか」

という問いは、目を背けているときは嫌がられますが、恐れずにきちんと見つめてみれば、さほどのことはないんです。

実は、生きているということの方が恐ろしいことなんです。

『荘厳』

日常語で

「飾ること」

を、仏教では

「厳飾(ごんじき)」

「荘厳(しょうごん)」

と表現し、使用されている漢字はいずれも

「かざる」

という意味を持ちます。

では、飾ろうとする行為に、どのような心がはたらいているのでしょうか。

一般に

「飾る」

という場合は、美しいものをより引き立たせたい、自分の生活を潤いのあるものにしたいなどの欲求がはたらいているように窺えます。

では、飾る品物やその情景はともかく、飾られるほうのもの、つまり飾るに値する相手とは何なのでしょうか。

大乗経典を代表するものに

『大方広仏華厳経』

という経典がありますが、その中では華をもって飾られるものは

「仏」

であると説かれています。

また

『妙法蓮華経』

では、華の中でも第一とされる蓮の華に仏の

「妙法」

が譬えられています。

それは、仏法に出遇わなければ、欲望のままに迷いの生を繰り返すほかない生き方の中をさまよい続けるのが私たちの本質だからで、自己を見つめ直し真の自覚を促してくれるはたらきをなす仏の教えこそ、私たちが荘厳すべき対象であることを教えています。

ともすれば、さまざまな物品で身を飾り、家を飾り、それで満足している者を、真の意味で荘厳すべきは何かを仏法は問いかけています。

『おかげさまが 見える眼に』

生きるということは、応用問題を解き続けていくようなものですが、その問題を解く時に使う私のモノサシがあります。

そのモノサシは、私の都合や立場に合わせたものです。

私の使うモノサシと全く同じものは、この世にはありません。

そんな自分中心のモノサシでは、物事をあるがままに正しく計ることができず、ずれて見えたり、時にはまるで反対に見えることにもなりかねません。

判断を誤り、後悔することが多いのも、そのせいなのでしょう。

迷いとは、私たちのこういう姿をいうのです。

仏教は、仏さまの智慧の教えです。

自己中心的なはからいを超えた世界からの、私たちへの呼びかけです。

その智慧のモノサシを頂いて、私のものを見る目や生き方が少しずつでも変わっていき、ついには人生の意味までが変わっていきます。

ガラスのコップを横から見れば長方形、真上から見れば円形に見えます。

視点が変われば、まるで違う世界が開けます。

人生の意味まで変わることになります。

私たちは、日々の暮らしを続けているうちに、毎日の生活を当たり前と思ったり、

「今日も良いことが何もなかった」

と、不足の思いに陥りかねません。

しかし、仏さまの教えを聞きますと、今私がいるこの世界は、何が起るか分からないところ、今日の暮らしが明日も保障されている訳ではない、ということに気付きます。

昔から

「一寸先は闇」

といいます。

そんな世界にいるのだと思えば、昨日と今日とどこが変わったのかわからないような一日も、

「家族揃って、一日が無事に終わります」

と、喜びや感謝の思いがわいてきます。

「見る眼があれば、喜びの種はどこにもある」

と言った人がいますが、そのような眼を持つことができた人は、この厳しい世界を生きながら、喜び多い人生を歩むことができるのでしょう。

「親鸞聖人にみる十念と一念」8月(後期)

『無量寿経』

に説かれる、十念・一念の

「念」

は、本来的には同一の語意です。

『無量寿経』

の原典では、願生心としての憶念の心を意味し、また善導・法然教学では、南無阿弥陀仏を称える念仏行の意味となっていますが、いずれにせよ同一の聖教にみね

「念」

の意は、すべて同じです。

けれども親鸞思想においては、本願文の十念は称名、成就文の一念は信心、そして弥勒附属の文の一念は称名と解釈されています。

親鸞聖人は、なぜそのようにみられたのでしょうか。

この十念・一念の思想の流れを、本願の十念から附属の一念へ、附属の一念から成就の一念へと捉えられたからにほかなりません。

南無阿弥陀仏の称名は、阿弥陀仏から十方の諸仏国土に響流されます。

その名号は、十方の一切の衆生を摂取する、阿弥陀仏の大悲心の躍動のすがたです。

その弥陀の信楽が名号となって、弥陀から釈迦仏へ伝承されます。

これがほんがんの

「十念」

の意味です。

釈迦仏は、釈迦国土の一切の衆生を救済するために、一声

「南無阿弥陀仏」

を称え、その名号の真実功徳を説法されます。

この説法によって、一声の念仏の真実功徳が、国土の衆生に聞かしめられるのです。

「南無阿弥陀仏」

と称える、その一声の念仏こそ弥陀の大悲心そのものであって、阿弥陀仏がまさしくその念仏者を摂取されていると、釈尊は説法されるのです。

こうして、弥陀の信楽は、一声の称名となって、釈尊から親鸞聖人へ、そして親鸞聖人から私たちに聞こえてきているのです。

これが附属の

「一念」

の意味です。

そうしますと、私たちが称えている一声の念仏は、まさしく阿弥陀仏の信楽の言葉にほかなりません。

成就の

「一念」

は、その一声の信楽を、私が聞き獲得する姿です。

この故に、親鸞思想に見る十念と一念は、あるいは称名となり、あるいは信心と解釈されていても、そこには何ら矛盾は見られないといえます。

では、本願成就文、

あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せむこと乃至一念せむ。

至心に廻向したまへり。

かの国に生れむと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せむ。

にみる

「信心の一念」

をどのように解釈すればよいのでしょうか。