投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「出会いに感謝〜思い続けたオリンピック〜」(下旬)ここまでのいろんなことが銅メダルにつながった

 結局、そのスランプから抜け出せないまま、オリンピックの選考会を迎えます。

内心、とても不安でした。

それでも、皆さんの応援があって、無事2位で代表になれました。

レースが終わったとき、本当に続けてきてよかったと思いました。

スタンドのマネージャーやチームから

「宮下さん、おめでとう」

の言葉を聞いて、やっと

「勝った」

と実感できたレースでした。

それで日本代表にはなりましたが、やはり日の丸を背負って世界と戦うにはそのままでは厳しかったので、コーチと相談してマンツーマンで練習したり、高地合宿、低酸素合宿などに取り組みました。

高地合宿というのは、記録は上がりますがリスクも高いんです。

疲れやすく回復もしづらいので、すぐ病気になる人もいます。

階段を上がるだけで息が切れるくらいに苦しい。

そういう練習をしていたので、とてもきつかったです。

オリンピック選考会からオリンピックまで121日あります。

そのうち海外で過ごした日が73日。

国内での練習が18日。

自宅で過ごしたのが30日です。

ほとんど韓国やアメリカなど海外に行っていました。

そういうオリンピックの合宿では、北島選手や入江選手といった他の代表選手とも一緒に練習しました。

そのとき、練習し過ぎて吐いたこともあります。

マッサージされても痛いと感じるほど、体がボロボロになるような練習でした。

でも、いろんなことを吸収できた合宿でした。

そして、いよいよ夢の舞台を迎えます。

ついにオリンピック予選が始まったんですが、そのときの泳ぎはひどいものでした。

自分では最高の泳ぎをしているつもりなんですが、コーチからは今までやってきたことと逆の泳ぎをしていると指摘されました。

プレッシャーで、自分が何をやっているかわからないんです。

それで

「お前は金メダリストじゃないんだから、気負う必要はない。

お前は挑戦者なんだからリラックスして臨め」

と言われました。

このとき、もう決勝には進めないだろうから、準決勝を最後として楽しもうと思ってレースに臨みました。

そうしたら、準決勝ですごくいい泳ぎが出来て、日本記録が出たんです。

きっと、決勝に残りたいとか、余計なことを考えなかったのがよかったんでしょうね。

一方、決勝ではメダルが狙えるんじゃないかと欲が出て、タイムを落としてしまいました。

やっぱりそういう雑念があるとダメで、結果は8位入賞でした。

そしてメドレーリレー。

北島選手から選手一人ひとりにノルマタイムが設定され、それが僕たちを奮起させました。

そして、予選、決勝と進み、ここまでやってきたいろんなことが最後の好タイムにつながり、北京オリンピックで銅メダルを獲得することが出来た訳です。

『「悪人」こそが救われるというのは、本当ですか?』

「悪人正機」

という教えは親鸞聖人が明らかにされた教えです。

大無量寿経に説かれた正意、阿弥陀如来の誓願は悪人こそが正機(めあて)であるという教えを明らかにされました。

往生のために何一つ善をなす事のできない、地獄へおちる要因ばかり作ってしまっているこの私こそ救わずにはおれないと手を差しのべてくれるのが阿弥陀様の誓いと願いですとお教え下さっております。

悪人と言いますのは、私たちが思っているような刑法を犯した犯罪者の事ではありません。

ましてや自分以外の悪い人を想定して、ああいう人でも救われるのかと思いがちですが、そうではありません。

聖人のおっしゃっている悪人とはこの私以外の何者でもございません。

往生浄土のために何一つ善根を積む事もできない、罪ばかり作っているこの私を悪人と言われているのです。

朝起きてから夜寝るまであれが欲しい、これが欲しい、あの人がどうだ、この人がどうだ、ああすればよかった、こうすればよかったと、三毒の煩悩(貪欲・瞋恚・愚痴)についばまれている私の姿こそ罪悪深重の凡夫、悪人である。

このような罪深い私ももらさず救って下さる阿弥陀如来の教えに出会えた事を思うと、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と感謝のお念仏を称えずにはおれません。

我が家の愛犬コロの話しをします。

我が家の愛犬コロの話しをします。

コロはまっ白の柴犬です。

某携帯会社の

「お父さん犬」

にそっくりです(*^_^*)♪

(ここで写真をアップ出来ないコトが残念です(>_<)) さて、そのコロですが、今年の9月8日で14歳になります。 人間でいうと、72歳にあたるそうです。 でもまだ、うちのコロは元気いっぱいで庭をかけまわっています。 夕方になると、散歩の催促がはじまり 「クークー」 鳴き始めます。 いつもは父が散歩当番なのですが、父が不在の為、私が散歩に連れて行くことに! コロはぐいぐい先に先に私を引っ張りながら、進んでいきます。 周りで散歩をしている他のわんちゃんに目をくれることもなく、 トコトコトコトコ・・・・・前進アルのみ!!! 運動不足の私は、家に帰りつく頃には 「ぜいぜい(^_^;)」 息切れ状態でした。 人間でいうと、74歳のうちのコロ。 私は26歳。 「体を鍛えなければっ!!」 と痛感した一日となりました。 そこで、筋トレ・ストレッチを始めました(^o^)ノ まだ1日目ですが・・・継続させます☆ 出来たら、1日30分のウォーキングもくわえていけたら・・・っと考えています。 『めざせコロ!!!』

『通達』

一般に通達と言えば、役所などから回ってくる通知を指します。

隅々にまで行き渡るようにという意味でなづけられたのでしょうか。

この言葉は、もともと

「つうだつ」

と読む仏教語で、仏道に深く達しているという、仏の覚りを意味しています。

「覚り」

と聞くと、現実離れしたもののように思われるかもしれませんが、

「覚り」

とはさまざまな思い込みから解放された、物事や現実をしっかりと見通す智慧のことです。

私たちは、心のどこかで自分のものの見方や判断は間違っていないと思っています。

そのように思わないと、自信を持てず、行動に移せないのが人間の性分だからです。

ところが、自分は間違っていないという思い込みこそが、実は危いのです。

世の中のことは、全てわかったつもりになってしまっている、その自身の愚かさに気付くところに、現実を見通す眼を獲得できるのだと言えます。

このことを仏教は

「通達」

という言葉で教えているのです。

『おかげさまが 見える眼に』

私たちが日頃口にしている

「おかげさま」

という言葉は、漢字では

「お蔭(陰)さま」

と書きます。

これは、ある結果を目にしたときに、そのことが成り立っている目には見えない陰の部分のはたらきを意味する言葉です。

これと、同じような意味を表す言葉に

「ご恩」

という言葉もあります。

これは漢字の成り立ちから

「(原)因を知る心」

であるということが窺えます。

つまり、結果を見てその原因に思いを寄せる心のありようを物語る言葉だといえます。

美しく咲いている花を目にした時、私たちはその美しさに心を癒されたり、和まされたりします。

けれども花はあくまでも結果であり、そこには必ず原因である種があったことは言うまでもありません。

そして、忘れてはならないことは、その原因である種から結果としての花にいたるまでは、土とか水、あるいは太陽の光といった諸々の自然の恵み、また何よりも心をこめてお育て下さった方のご苦労があったからこそ、結果として美しい花が咲いたということです。

このように、ある一つの結果にふれたときに、その原因までたどって感謝する心の在り方を

「ご恩」

というのですが、同じように自らが身に受けた事柄を支える、目には見え難い陰の部分のはたらきを

「お蔭さま」

という言葉で味わうことができます。

では、この目には見えない

「お蔭さま」

を私たちはどのようにして見ることができるようになるのでしょうか。

例えば、この地球という星は一日一回転(自転)し、一年かけて太陽の周りを回っている(公転)と聞かされています。

けれどもそのことを自らの力で知り得るかというと、なかなか難しいのではないでしょうか。

長い間その事実が明らかになるまで、そしてなってからも依然として人々は、

「星々の方が回っている」

と信じていました。

もちろん、そのことを教えられなければ、現代の私たちも自らの力でそのことを自覚できる人はあまり多くはないと思われます。

しかしながら、ほとんどの人が地球が自転していることは

「教えられる」

ことによって知っています。

したがって、教えられることなく自覚することは難しいのですが、教えられること、聞かされることによって、目には見えない事実を知ることはできます。

このように、仏さまのみ教えを繰り返し、繰り返し聞くことによって、たとえ肉眼で見ることはできなくても、私たちは確かにあるはたらきを心の眼で味わうことができるようになるのではないでしょうか。

一般に、私たちはお盆の時期には先祖の方々、あるいは先に往かれたご家族・ご親族の方々にことのほか心を寄せることを常としていますが、では残りの日々はいかがでしょうか。

熱心に思えば思うほどに、残りの日々はいろいろなことに追われ、自分のことに精一杯で生きている自分の姿が知らされます。

そんな私のことを、拝まない時にも拝んでいて下さり、いつも案じ、念じていて下さることの有り難さが偲ばれることです。

思うに、

「おかげさまが見える眼」

をいただくところに、生かされ生きていることをよろこぶ心も自然とわいてくるのではないでしょうか。

「親鸞聖人にみる十念と一念」8月(中期)

これは、信の一念と行の一念についての、弟子の質問に対する答えです。

ここでまず親鸞聖人は、阿弥陀仏の教えにおいては、信と行は離れては存在しないとわれます。

そして、行の一念と信の一念が、いかに重なっているかを

「行」

という観点から説明されます。

 行と何でしょうか。

それは

「本願に誓われている名号を一声称えて往生するという教えを聞いて一声念仏する」

ことが

「行」

であるとされるのです。

したがって、この行には、弥陀から諸仏へ、諸仏から衆生へ、そして衆生が行ずるという、三種の行が見られます。

 第一は、本願に誓われている行で、

「一声名号を称えよ、あなたを往生せしめる」

という、弥陀が衆生を摂取する大行としての名号の十方への響流です。

第二は、釈尊の衆生に対する行で、

「弥陀の名号を一声称えて往生せよ」

との説法がそれです。

第三は、衆生が釈尊の説法を通して、

「弥陀の名号の真実功徳を聞き信じて、一声称える」

という行です。

 そして、この阿弥陀仏の誓願を釈尊から聞き、名号に乗ずることのみが、自分の唯一の往生の行であることに、疑いの余地がなくなることを

「信の一念」

とされるのです。

そうしますと、信と行は二つですが、行によって

「一声念仏せよ、往生する」

という教えを聞いて、疑いが晴れ信じたのですから、行を離れた信はありえません。

また信によって行の功徳の全体が、その衆生に明らかになったのですから、この信を離れては、行の意義は存在しえません。

ただし、この衆生の信もまた、まさしく弥陀の御誓いによって発起せしめられているのですから、この行と信のすべてが、弥陀本願の行だと、親鸞聖人は解釈されるのです。

 さて、三種の行の内、

第一が第十八願文の「十念」、

第二が弥勒付属の文の「一念」、

第三が本願成就文の「一念」

で、その第二の一念が

「行の一念」

です。

阿弥陀仏の至心信楽欲生の大悲心は、南無阿弥陀仏という名号によってしか十方世界には伝わりません。

しかもその名号を、十方の諸仏国土に伝えるのは、その国土の仏です。

それ故に、この行の一念は、娑婆国土においては、釈尊から龍樹菩薩へ、そして七高僧を通して親鸞聖人に伝承されたのであり、次の仏国土に対して、釈尊が弥勒菩薩にこの行の一念を付属されたのです。