投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞聖人の獲信の構造 3月(1)

親鸞聖人の獲信の構造について、時間の流れの中で考えてみます。

当然、過去・現在・未来ということになりますが、

「今(現在)」

という時点を押さて、そこに親鸞聖人の獲信の世界を重ねてみます。

ここでいう

「今」

とは、親鸞聖人が阿弥陀仏の本願と出遇われた時点のことです。

この時点で、親鸞聖人の心は、それ以前の自分とそれ以後の自分とに、はっきりと分かれています。

これは

(16)本願を信受するは前念命終なり。即得往生は後念即生なり。(『愚禿鈔』)

『愚禿鈔』に見られる思想です。

善導大師の

「前念命終、後念即生」

という言葉を解釈して、獲信以前の心と獲信以後の心とをはっきり分け、本願の真実を聞き、信受するということは、今までの迷いの心の一切が破れ、その自分の命が終わることだと述べておられます。

そして、そこでその時、浄土に生まれるという、全く新しい信を得た喜びの心になるといわれるのです。

つまり、獲信以前と獲信以後の姿は、全く変ってしまうのです。

ここで、まず獲信以後の念仏者は、どのような念仏道を歩むかを問題にします。

この念仏者は、すでに阿弥陀仏の本願の心を獲得しています。

今、本願に出遇っているということは、阿弥陀仏の本願が、自分の心に充ち満ちているという真理をすでに聞いたということだからです。

この故に、獲信後の親鸞聖人は、阿弥陀仏のこころに満たされた親鸞聖人になるのです。

この獲信者の姿を、親鸞聖人は

「正定聚の機」

と呼ばれます。

そして、その信心を獲得した者は、その瞬間に十種の大きな御利益を獲るとも述べられます。

(17)金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超へ、必ず現生に十種の益を獲。何ものか十とする。

一には冥衆護持の益、二には至徳具足の益、三には転悪成善の益、四には諸仏護念の益、五には諸仏称賛の益、六には心光常護の益、七には心多歓喜の益、八には知恩報徳の益、九には常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。(「教行信証」)

この中で、殊に重要なのが最後の三つの益です。

第八の知恩報徳の益、第九の常行大悲の益、第十の入正定聚、この三つの御利益を獲るのです。

三つの中では

「知恩報徳」

が根本で、恩を知ることがとても重要になります。

ここで、時間の流れに着目します。

獲信とは、

「仏願の生起本末を聞く」

ことだと言われます。

その聞く内容は、私を救うために阿弥陀仏がどのような願いを起こされたかということです。

発願の根源は、まず無上仏である真如そのものが動いて法蔵と名のり、兆載永劫の行を修して、阿弥陀仏となります。

真如が阿弥陀仏になるということは、南無阿弥陀仏という名号となって、私の心に飛びこんで来るということですが、救いの法である名号の真実を教えるために釈尊が悟りを開き、

「ただ念仏して弥陀の浄土に生まれよ」

という教法を私のために説法されます。

迷える私を救うための、弥陀・釈迦の大悲心が、まさに私の心に徹入していることをはっきり頷くことが

「仏願の生起本末を聞く」

ということになるのです。

聞くことによって、私たちは初めて自分一人のために宇宙の全体が動いているという、無限の恩を知ることになるのです。

無限の恩を知ると、ここに必然的にその恩に報いるという心が生まれます。

この点を殊に重要視する必要があると思われます。

それは、報恩行をいったい誰が成しうるのかということなのですが、それは信心の行者のみです。

したがって、未だ信を得ていない者にとっては報恩の行は存在しないのです。

ただ、信を得た者のみがよく報恩行をなしうるのです。

では、その報恩行とは何なのでしょうか。

獲信の念仏者は、今この私を救うために宇宙の全体が動き南無阿弥陀仏となった、その真理を聞いています。

阿弥陀仏の大悲そのものの中で、私が生かされているという真実に今頷いているのです。

獲信の喜びとは、その名号の功徳を喜ぶことですから、報恩の行とは、その喜び頂いた名号の功徳を直ちに、他に伝えることになります。

その直ちに伝える行の実践が

「常行大悲」

です。

したがって、念仏を伝えることは、獲信の念仏者だけがよく成しうるのです。

なぜなら、獲信の念仏者は、自分が念仏を喜ぶ身となったその恩をまさしく知り得ているからで、恩を受けたことを知った瞬間、その念仏の法門を無限に他に伝えるという

「常行大悲」

が行われるのです。

そうすると、報恩行と常行大悲の行とは実は同じであることが知られます。

そして、この常行大悲の実践者が、まさに正定聚の位に住している者の姿になります。

この意味から、獲信者は何をするかということになりますが、それはただ未信の者に対して、念仏の真実を説き続けるということになります。

念仏の真実を説き続けるという実践が、信を得た者の姿になる訳です。

日差しの暖かな日が多くなりました。

日差しの暖かな日が多くなりました。

土筆(つくし)やふきのとうが、地面から顔を出し、木の枝には蕾がふくらみ、花が咲き始めています。

季節ごとに景色が変化していく中で、桜島の活動は四季を問わず活発です。

今年は、大正3年の桜島大噴火(死者58、傷者112、焼失家屋2,268)から99年目を迎えました。

当時、まだ寒い1月であるにも関わらず、土の中から冬眠中であるはずのカエルやヘビ、トカゲなどが起き出し、温泉や海水温も上昇するという異変が起きていたそうです。

また、地震や地鳴りも頻発する前兆現象が続く中で、住民は不安を抱えていましたが、鹿児島測候所(現・鹿児島地方気象台)の見解は、

「桜島に異変はない。

避難するには及ばない」

ということだったそうです。

しかし、住民の不安が的中し、1月12日桜島は大爆発を起こします。

その後約1か月間にわたって頻繁に爆発が繰り返され、大量の溶岩が流出しました。

溶岩流は、桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで海峡(距離最大400m最深部100m)で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになりました。

また、火山灰は九州から東北地方に及ぶ各地で観測されました。

なお、この火山活動がほほ終息したのは、大正5年でした。

この時、住民の中には測候所の見解を信用せず、事前に避難をする人がいる一方、見解を信頼して避難の遅れた人たちもいました。

そのため、混乱によって海岸から転落する人や、泳いで対岸に渡ろうとして凍死したり溺死したりする人が相次ぎました。

この教訓から、鹿児島市立東桜島小学校に残る桜島爆発記念碑には

「住民は理論を信頼せず、異変を見つけたら未然に避難の用意をすることが肝要である」

と書かれてあり、これは

「科学不信の碑」と呼ばれています。

この時の大噴火により、桜島島内の多くの農地が被害を受け、ミカン、ビワ、モモ、麦、大根などの農作物は、ほぼ全滅しました。

耕作が困難となった農地も多く、そのため、噴火以前は2万人以上いた島民の約3分の2が種子島、大隅半島、宮崎県を中心とした日本各地の島外へ移住しました。

自然の力は、人間の予測を超えた動きをします。

このように、活火山の周辺にたくさんの人が住んでいるということは、世界でも珍しいことだそうです。

火山と共に生きるという環境の中にあって、私たちはともすればそのことへの意識が薄くなってしまう面があります。

年間爆発回数の記録を更新するなど、近年桜島は火山活動が活発化しています。

来年の

「大正大噴火百年」を前に、伝達される情報に頼りきるのではなく、また何よりも

「慣れ」てしまって環境の変化を見落とすことのないようにしたいと思います。

そして、日頃から防災の意識を高め、いろいろなことに備えておくようにしたいです。

『支え会おう敬いあおうみんな同朋(なかま)だ』(後期)

漢字の成り立ちを考えるときに、必ず出てくるのが白川静先生のお名前です。

本場中国の研究者より革新的な漢字の解釈をされた先生で、日本の誇りとも言える方です。

先生の書かれたものを読ませて頂くと、漢字は占いや呪術、政治を元にして成り立っていることがよく分かります。

「幸」さち、という字について考えてみます。

「幸」はしあわせ、幸福の

「こう」です。

現代ではほとんどこの使い方をしますが、もともとは海の幸、山の幸といった、なにか恵まれたものを表す言葉でした。

わたしの祖母が

「幸」と書いて

「コヲ」という読みだったのも、明治時代、食べていくのも苦しい時代に

「せめて幸福な人生を」という気持ちがこもっていたことと思います。

では、もっと時代をさかのぼって、この

「幸」という字は本来どのような意味だったのかと調べてみると、

「手かせ(手錠のようなもの)」を意味していたようです。

これは

「幸」という字を横にしてみると、何となく分かるような気がします。

「手かせ」

をするというのは、当時の罪人に対する処置の仕方なのですが、一時にせよ手の自由を奪われるのは不自由なことです。

けれども、これは刑罰を受けることに比べれば、思いがけない

「しあわせ」でした。

なぜなら、理不尽な理由によって死刑にされた人もいたでしょうし、死刑以外にも残虐な刑罰がいろいろありました。

罪人であることを示すための入れ墨を施す刑、目を傷つけたり、手や足を切断したりする刑、

「史記」の執筆者である司馬遷は宮刑(腐刑とも)という生殖器を切除されるなどの刑を受けたりしました。

これら残虐な刑罰を受けることに比べれば、たとえ手の自由を奪われてはいても、手かせをされるというのはまだましな方です。

そこで、より重い刑罰を免れているということから

「幸」といったようです。

「不幸中の幸い」というと、その概念が一番ピンとくるのではないでしょうか。

しかし、他の人びとの不幸と比べて、

「自分はまだまし…」という姿勢はいかがなものでしょうか。

「あそこは子どもさんが病気で大変ね、うちは元気で良かったわ…」

「旦那さんが亡くなったんだって。うちのは、酒ばかり飲んでだらしないけど、元気だからしあわせと思わなきゃ…」

このように、他人の不幸を見ることで、自分の幸せを感じるということは、いつか自分も他人に踏みにじられることを意味します。

「そんな生き方ではいけない。あなたもやがて苦しむ時が来ますよ」

と語りかけているのが、仏さまの教えだと思います。

「他に対する優しい心を持って欲しい、なにか一つでも。言葉かけでも笑顔でも、何でもいいからできることをしたい」

という、心が大事です。

しごく当たり前のことを言っているようですが、私はさもしい心が根深く、他の人びとの幸せを自分の幸せとはなかなか思えません。

けれども、そう思えないからしなくてもいいというのではなく、そのような自分の心をごまかすことなくさらけだして、本当に恥ずかしいことだと省みることが大切なのです。

そういうことに気付かせてくださる仏さまの話を聞ける仲間がいることほどすばらしいことはありません。

「みんな仲間だよ」

簡単そうですが、そう言える人がいれば、とても有難いことです。

親鸞・紅玉篇 3月(7) 炎の辻

自分の眼が間違っていなかったことに、民部は、膝を打って、

「道理で――」

と、何度も、うなずいた。

「六条どのは、和学、歌学の方では、当代での指折りであある。

その御猶子とあれば、なるほど、あらそえぬ」

「お父上か、叔父様が、共に参って、おねがい申すところですが、学問の徒になるには、自分で参って、ひとりで、おねがいするのが、ほんとだと教えられて、こうして参りました」

「お気持が、ようわかる」

「先生、どうか、私を、今日から儒学のお弟子にしてくださりませ」

「お家庭(うち)にいるあいだは何を学んでおられたか」

「お父上から和歌を、また、叔父様唐、書道や、やさしい和学を、教えていただきました」

「よろしい、明日から、お通いなさい。

民部が、学び得たかぎりの学問を、おつたえいたしましょう」

「ありがとうございます」

十八公麿の頬には、希望のいろが、紅(あか)くかがやいた。

やはり、少年である。

そう聞くと、いそいそと、玄関へ駈けて、

「介」

と、弾んで呼んだ。

侍従介と、箭四郎は、式台のすみに、うずくまっていたが、

「お、和子様、どうなされました」

「おゆるしを受けた」

「それは!」

と、二人とも胸を伸ばして、よろこんだ。

「上出来でございました。

はやく、お父君にも、このことを」

穿物(はきもの)をそろえて、塗の剥げた貧しい輦(くるま)の轅(ながえ)を向ける。

彼が、それに乗ると、学舎の窓から、

「やあ、どこの子だ」

と、師の見えない隙をぬすんで暴れていた悪童たちが、墨だらけな顔や、悪戯ッぽい眼を外へのぞかせて、

「貧乏車」

「ぼろ車」

「なんぼ、くるくる廻っても」

「貧乏車は、ぼろ車」

と、謡(うた)って、囃(はや)した。

箭四郎は、窓のそばへ駈けて、

「雀ッ。何をいうぞ」

「わっ」

と、笑いながら、いちどに、窓の首は引っ込んだ。

「箭四、大人気ないぞ、行こう」

介は、牛の手綱をとった。

「わしが曳く」

と、箭四郎は手綱を彼の手から取って、まだ、腹だたしげに、窓をふりかえりながら、

「こんな、悪さのいる学舎へ、大事に和子様をかよわせても、よいものか」

「そりも、ご修業だ」

「朱にまじわればということもあるではないか――」

「染まるようなご素質であったら、それは、ご素質がわるいのじゃ」

「いまいましい、童(わっぱ)どもだ」

「だが、貧乏車とは、童も嘘は歌っていない。

このお粗末な車を見て、たれが、貧乏ではないといおうか。

……ああ、なんぼ、くるくる廻っても、貧乏車は、ぼろ車。

世の中が回らぬうちは、どうにもならん」

牛飼も、雑色も持たない古車は、轍(わだち)の音さえも、がたことと、道の凸凹(でこぼこ)を揺れてゆく。

宗教の違う友人が亡くなった場合、通夜・葬儀ではどのようにしたら良いですか?

こんな話があるのだそうです。

『無宗教』を自認し

「葬式無用論」を説いていた大学教授がいました。

しかし、あるとき、思いもかけない

「我が子の死」に出会ったのだそうです。

すると、それまで盛んに主張していた説はどこかに吹き飛んで、涙ながらに

「盛大な葬儀をしたい」と…。

故人の死を縁に営まれる葬儀というのは、後にのこった遺族・縁ある方々が亡き方の死を悼み、その遺徳を偲ばずにはおれないという心情から行われる儀式です。

「死を悼み、遺徳を偲ぶ」

ことは、自らの信仰とは切り離し得ない心のはたらきです。

亡くなった方が無宗教や自分と宗教が違ったとしても、『私』が故人を偲ぶ時、そのことは私の宗教観でしか偲ぶことはできないのではないでしょうか?

では、仏教ではどうかというと、インド古来の礼儀作法にならって、合掌礼拝することになっています。

したがって、他宗や他教の葬式や通夜に参列したときも、合掌礼拝の作法で、敬虔(けいけん)に哀悼の意を表すことが大切です。

親鸞・紅玉篇 3月(6) 炎の辻

壁は、墨汁(すみ)によごれていた。

四側(よかわ)に並んだ机には、約二十人ほどの学童が、強いて姿勢を正して、師の講義を聞いていた。

「孝経」

であった。

日野民部の講義が終わると、

「先生……」

と、次の部屋に待っていた学僕が、側へすすんでいった。

「ただ今、御入門したいと申す児童が、二人の隨身を供に連れて、お玄関に控えておりまするが」

「そうか。通しておくがよい。――しかし何家(どこ)のお子だ」

「まだ伺っておりませぬ」

学僕が去る間に、児童たちは、もう机の上の書物を、あわただしく仕舞って、立ち騒いでいた。

「これっ」

民部は叱って、

「誰が、立てといいましたか、まだ、書物を仕舞ってはなりませぬ。今、先生が、読み解いた一節を、声をそろえて、復習するのじゃ」

すぐ静粛になる。

児童たちは、書(はん)を両手にもって、孝経の一節を、高らかに、読んだ。

「よろしい」

ばたばたと、また騒ぎかける。

「――よろしいが、まだ、学課はおしまいではありませぬぞ。硯(すずり)に、水をおいれなさい、そして、草紙を出す」

命じられるままに、手習(てならい)が始まった。

よしと見て、民部は、ほかの室へ立って行った。

その室には、何もなかった。

儒学者の家らしい唐机が一脚と、書物の箱が、隅にあるだけである。

そこの板縁を後ろにして、一人の少年が、さっきから待たされて控えていた。

民部は、そこへ何気なく入って行ったが、足をふみ入れるとすぐに、はっと思った。

この学舎には、堀河、京極、五条、烏丸などの、権門の子をはじめ、下は六、七歳から十五、六歳の子弟を預かっていて、民部は今日までずいぶん多くの少年を手にかけてきているが、まだこんな感じを初対面の時にうけた例(ため)しはなかった。

【凡(ただ)の子ではない】すぐ、感じたのである。

永年の体験で、教育者として直感したのではあるが、べつに、その少年の容貌(かおだち)とか、身装(みなり)とかに変った点があるわけではない。

少年は、手を膝に重ねて、入ってきた民部を、ちらと見上げている。

そして、すこし後へ退がって両手をつかえた。

良家の子ならば、これくらい作法は、どこの子弟でも仕込まれている。

だのに、民部は、そのあたりまえの動作のうちに、やはり感じるのであった。

【はてな?……何家の子だろうか。これは、鳳凰(ほうおう)の雛(ひな)だ】そう思いながら、

「入門したいというのは、そこもとか」

「はい」

すずやかな返辞である。

「お年は」

「八歳(やつ)になりました」

「おん名は」

「十八公麿(まつまろ)と申します」

「お父君は、武家か」

「いいえ」

「どなたで、何といわるる」

「六条源氏町の藤家範綱の子でございます」

「や、範綱うじの、御猶子(ごゆうし)か。……ウーム、道理で」