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「宗教をどう教えるか」(上旬)権利があるのに

ご講師:菅原伸郎さん(朝日新聞)

学校で宗教を教えることができるのか、ということについてお話します。

いろいろ難しいことがあって、憲法や教育基本法では

「特定の宗教を教えてはならない」

となっています。

ある部分、それは当然だと思うんですね。

税金で成り立っている公立の学校が特定の宗教について教えることは、やはり間違いだと思います。

しかし、まったく無理かというとそうでもない。

宗教教育と一口で言いますけれども、その中身はいろいろありまして、私は五つに分けて考えることにしているんです。

まず、宗教知識教育というのがあります。

宗教を知識として、あるいは文化として教えることです。

これは公立の学校でも可能なことです。

例えば、霊感商法というのがありますが、これを宗教知識として具体的に教える。

また、世界にはイスラム教やユダヤ教、ヒンズー教があるとか、こういうことを知識として教えることは可能ですし、今までもかなりやってきた訳です。

ただ、いかにも不十分じゃないかと思うんですね。

宗教知識教育、これは私立・公立を問わず、ぜひやってもらいたいですね。

二番目は宗派教育です。

浄土真宗とかカトリックとか天理教といった一宗派教育ですね。

これは、公立学校では当然やってはいけないと思います。

しかし、私立の学校は大いにやっていいと思うんですね。

宗門系の学校は、宗派に基づいた教育をやっていいと思うんです。

むしろ問題なのは、せっかくそういう権利があるのに、やっていない私立学校があるということです。

それから三番目に宗教情操教育。

公立学校では、宗教についての知識は教えることが出来ますが、宗教心ということは教えにくい訳です。

宗教心を教えようとすると、どうしても神様、仏様、阿弥陀様となって教えられない。

それならば、阿弥陀様を持ち出さないで宗教の心を伝えられないかということですね。

非常に難しいことですけど、これをなんとかやろうということは戦前から言われています。

でもこれは賛否両論ありますね。

四番目に対宗教安全教育です。

これは要するにカルト安全教育ですね。

ちょっと怪しいものについては、気をつけようということです。

これは出来ると思います。

あとは勇気の問題ですね。

ついでに言いますと、カルトの見分け方ということで、私はとりあえず三つぐらい考えているんです。

最初に退会の自由があるかどうか。

一部のカルトはなかなかそうはいきません。

無理やり入れられたり、入るととことん搾り取られます。

次にお金ですね。

お金をどれだけ取るか。

巨額なお金を払わさせられます。

最後に、その組織の中に言論の自由があるかということです。

例えば教祖について、自由な議論が出来ているかどうか、あるいはできるかどうか。

それから、その組織の中で、いろんな議論が公開されているかどうかということですね。

カルトからは、そういうことは見えてきません。

『すべてのものは移りゆくおこたらずつとめよ』(前期)

「諸行は無常である。少しでも油断すると、どんどん変化していく。だからたゆまず努力せよ」

これがお釈迦さまが最後に言い残された言葉だと言われています。

ところで、

「諸行無常」

と聞きますと私たち日本人は、ものの哀れみ、悲しみいうところで捉えられているところがありますが、本来の仏教の

「無常」

とは、盛んなるものが衰え、形あるものが滅ぶことももちろんですが、逆に衰えているものが元気になることも

「無常」

であり、つまりそのような感情的なのもではなく、すべてのものは移り変わっていくという真理を表わすのが

「諸行無常」

ということであります。

世の中のすべてのものは、とどまる事なく移り変わっていきます。

もちろんこの私も例外ではありません。

今、この文章を読んで下さっているあなたも、もう読む前のあなたとは違い、髪の毛も数本抜けているかもしれないですし、細胞レベルにおいては随分入れかわっているそうです。

とにかく、この私は一瞬一瞬のいのちを生きています。

しかもそのいのちは、無数、無量のご縁(おかげさま)によってあり得ており、いろいろなつながりのなかで連帯し合って、共に生きあっているのです。

決して一人では生きてはいけませんし、一人では生きられません。

この私の

「いのち」

は、空間的にも時間的にも思いも及ばない程の多くのものに支えられ、連帯し合って存在しています。

それが

「縁起」

という思想であり、その思想に基づいて明らかになるのが仏教の説く

「諸行無常」

の教えであります。

ところで、普段私たちが何となしに使っている

「ありがたい」とか

「ありがとう」

という言葉の中には、この縁起の思想がわかりやすく表現されていると思います。

「有り難う」

とは読んで字の如く、

「有る事が難しい」

という事であります。

数限りないご縁の中で、その関係性によって、有り得ないことが起こった、有る事が難しいのに起こりえたということへの出会いの喜びが、

「ありがたい」

「ありがとう」

という言葉には含まれているのです。

私たちの存在はすべて縁起であります。

それはいかに拒否しようとも拒否できない事実であります。

その縁起の思想によって私たちの人生を考えていけば、私たちは物事をありのままに知る智慧を身につけることができると教えて下さった方が、今から2,500年ほど前のお釈迦さまであったわけです。

しかし私たちの現実は、縁起なる

「いのち」

であることを忘れ、自分に執着し、あらゆる物事を自分中心にとらえて争いをおこし、欲望・怒り・ねたみに、心と身体を悩ませ苦しみ続けています。

そのような私だからこそ、たゆまず、おこたらず、聴聞につとめはげむべきであるとお釈迦さま最後のお言葉を、共に聞かせていただきたいものです。

親鸞・紅玉篇 3月(10) 燎原(りょうげん)の火

一敗地にまみれて、壮烈な死をとげた源三位頼政の軍に、民心は同情と、失望をもった。

そして心のうちで、

「どこまで、悪運がつよいのか」

といよいよ、傲(おご)り栄える平家を憎んだ。

石の上の雑草みたいな、うだつの上がらない自分たちの生活に、また糖分、陽(ひ)があたらない諦めを嘆いた。

だが、頼政の死は、犬死でなかった。

彼の悲壮な一戦は、むしろ老後の花だった。

【あの源氏の老(おい)武者ですら、これほどのことを、やったではないか】ということは、諸国に潜伏している源氏の者を、はなはなだしく強く衝(う)った。

彼の挙兵に刺戟された源家の血統は、永い冬眠からさめて起ち上がったように、諸方から、兵をうごかし始めた。

まず、八月七日には、関東の伊豆に、頼朝が義朝滅亡以来、絶えて久しく、この天(あめ)が下に見なかった白旗を半島にひるがえす。

その飛報が、京の六波羅を驚かして、まだ、軍備も整わないうちに、第二報は、彼らの思いもしなかった木曾の検非違使(けびいし)から来て、

「木曾の冠者義仲(かじゃよしなか)、近江以北の諸源氏をかたらって、伊豆の頼朝に応じて候」

とある。

愕然(がくぜん)と、六波羅の人心は、揺れうごいた。

折もわるく、清盛は、このころから、不快で、大殿籠りの陰鬱(いんうつ)な気にみたされている時である。

夜ごとに、悪夢をみるらしく、宿直(とのい)の者に、不気味をおぼえさせた。

大熱を発して、昼も、どうかすると大廂(おおびさし)に、三位頼政の首がぶら下がっているの、屋根のうえを、義朝の軍馬が翔(か)けるの、閻王(えんおう)を呼べの、青鬼、赤鬼どもが、炎の車につて、厩舎(うまや)門の外に来ているのと、変なうわ言ばかりを洩らすのであった。

だが、宗盛をはじめ、平家の親族は、難く、清盛の病気を秘して、

「口外無用」

と、宿直や、典医や、出入りする将へも言いわたしていた。

頼朝の兵は、枯れ野の火のように、武蔵を焼き、常陸へ入る。

義仲は近江路へと、はや、軍馬をすすめていると聞えた。

そうした、眼まぐるしい、一刻の落着きもない都のなかを、毎日、十八公麿は、がたがた車で、日野の学舎へ一日も怠らずに通いつづけているのである。

すると、ある日、悪童組の寿童丸や、ほかの年上の生徒が五、六名、民部の留守を見すまして、

「やい、牛糞町の童」

と、十八公麿をとりまいていった。

「おまえの父親は、六条の範綱ではあるまい。

ほんとは、日野の有範の子じゃろう」

それは、十八公麿も、知っている野で、かなしくはなかった。

黙って、澄んだ、まるい眼をして、そういう悪太郎達の顔をながめていた。

寿童は、脅かすように、

「よいか。まだ、おまえの知らないことがあるぞ。

教えてやろうか――それはな、おまえの実の父、藤家有範は、世間には、病死といいふらしてあるが、まことは、こっそり館をぬけだして、数年前から、源三位頼政の一類と一緒に謀叛をたくらんでおったのじゃ。

そして、頼政入道や、その他の者と、宇治河原で、首を打たれたのだ。……どうだ知るまい。

知っているのは、わしの父、成田兵衛だけだ。わしの父はな、宇治の平等院で、源氏武者の首、七つも挙げたのだぞ」

親鸞・紅玉篇 3月(9) 燎原(りょうげん)の火

朝だった。

奥の御用で、何か町まで買物に出た箭四郎が、

「介っ、大変だぞっ」

と、その買物も持たずに戻ってきていった。

「どうした?

「戦だっ」

「またか」

めずらしくもないように介はつぶやく。

箭四郎は、昂奮して、

「いや、こんどの火の手は、ほんものらしい。

源氏の一類が、いよいよ我慢がならずに、起ったらしい」

「ふーむ」

介も、そう聞くと、若い眼をかがやかした。

「うわさか、見てか」

「五条、四条、出陣の六波羅の軍馬で、通れるどころではない。

――聞けば、高倉の宮をいただいて、源氏の古強者、源頼政が、渡辺党や、三井寺法師の一類をかたらって、一門宇治平等院にたてこもって、やがて、都押しと聞いた」

「ほう、それは、六波羅もあわてたろう」

「勝たせたいものだ」

「…………」

介は、何か考えこんでいたが、やがて、吉光の前の住む北殿へ走って、そこで、彼女としばらく何か話していた。

範綱も、やがて知って、

「その様子では、洛中のさわぎも、ただごとではあるまい。

怪我してはならぬゆえ、十八公麿も、きょうは、学舎をやすんだがよいぞ」

と、いった。

十八公麿は、聞くと、

「気をつけて参ります。決して、あやうい所へは寄りませぬから、学舎へ、やっていませ」

と、縋(すが)った。

泣かないばかりに熱心なのである。

心もとない気もするが、

「では、気をつけて。――軍馬で通れぬようであったら、戻ってくるのじゃ」

注意して、ゆるした。

箭四郎が見てきた通り、洛中は、大路も小路も、鎧(よろい)武者と、馬と、弓と長刀(なぎなた)とに、埋まっていた。

心棒の緩んだ轍が、その中を、十八公麿をのせて、ぐらぐらと、傾(かし)いで通った。

車の前に、薙刀(なぎなた)が仆(たお)れかかったり、あらくれた武者が、咎めたり下が、十八公麿は、その中で、孝経を読んでいた。

「箭四、見たか。和子様の、なんという大胆な……」

介でさえ、舌を巻いた。

そして思わず、

「やはり、和子様にも、どこかに、源氏武者の血があるとみえる」

と、つぶやいた。

箭四郎は、袖をひいて、

「しっ」

と、たしなめた。

平家の武者の眼が道には充満しているのである。

けれど、その日は、無事だった。

次の日も、無事だった。

源三位頼政が旗をあげたという沙汰は、洛内はおろか、全国の人心に、

【やったな!】という衝撃をつよくあたえた。

だが、潮のように、宇治川を破り、平等院をかこんだ平家の大事は、数日のうちに、三位頼政父子の首、その他、渡辺党、三井寺法師の一類の首(しるし)を、剣頭にかけて、凱旋(がいせん)してきた。

その首数、二千の余といいふらされ、血によごれた具足の侍が、勝ち祝の酒に酔っぱらって、洛中を、はしゃいで歩いた。

親鸞・紅玉篇 3月(8) 炎の辻

次の日から、十八公麿のすがたは、雨の日も、風の日も、欠かさずに、学舎に見えた。

師の日野民部忠経(ただつね)は、元南家の儒生で、儒学においては、朝(ちょう)に陰陽師の安倍泰親、野に日野民部といわれるほどであったが、磊落(らいらく)な質(たち)で、名利を求めず、里にかくれて、児童たちの教育を、自分の天分としていた。

民部は、十八公麿を、愛した。

日のたつに従って、その天稟(てんぴん)を認めてきた。

【これこそ、双葉の栴檀(せんだん)だ】まったく、十八公麿の才能は、群をぬいていたむしろ、余りにも、ほかの児童と、かけ離れ過ぎているくらいなのである。

で児童のうちにも、嫉妬はある。

がたがた車

がたがたぐるま

貧乏ぐるまの

音がする――

学舎の往き帰りに、さかんに、そんな歌がうたわれた。

まったく、十八公麿のような古車で通ってくる者は一人もいない。

家の近い者は、従者に、唐傘をささせて来たり、綺羅(きら)びやかな沓(くつ)をはいて通うし、遠い者は、蒔絵(まきえ)車や螺鈿(らでん)車を打たせて、牛飼にも衣装をかざらせ、

「おれの牛は、こんなに毛艶がよいぞ」

と、牛までを誇った。

そうした中に、学舎のうちでも最もとしうえ一人の生徒がいた。

十八公麿はわすれていたが、お供の介は見覚えていた。

小松殿の御家人、成田兵衛の子である。

まだ十八公麿が日野の館にいた頃、強(したた)かな仇をした小暴君の寿童丸なのである。

寿童は、知っていた。

虫が好かないというのか、いまだに、あのことを根にもっているのか、とかく、意地がわるい。

そして、

貧乏車の音がする――という歌を流行らせた発頭人(ほっとうにん)も彼であることが、後にわかった。

「介、あの悪童が、張本じゃ、和子様のため、何とかせねばいかぬ」

「うむ、懲らしてくれたいとは思うが」

「一つ、この拳固(こぶし)を、馳走してやろうか」

「よせよせ」

箭四郎が、しきりと逸(はや)るのを、介はあぶながった。

介も、当然、憎々しくは思っているが、いかんせん、平家のうちでも、時めいている権門の子だ、侍の子だ、それに、学舎に通ってくるのでも、毎日五、六人ずつの郎党が車についてやってくる、撲りなどしたら、自分の首があぶないし、第一に主人の身にも災難のかかるのは知れている。

また、寿童丸の郎党たちも、傍若無人である。

主人の子の学業が終わるのを待っている間には、近所の里の女をからかったり、石つぶてで、雀を打ち落として、供待部屋(ともまちべや)の炉で炙(あぶ)って喰いちらかしたり、はなはだしい時は、こっそり、酒などをのんでいる。

そして、

「おい、介、公卿奉公もよいが、選(よ)りに選ってお牛場の落魄(おちぶ)れ藤家などへ、なんで、物好きに住みこんだのだ。

おれの主人の邸(やしき)へ来い、厩(うまや)掃除をしても、もうちっと、身ぎれいにしていられるぞ」

などと、無礼をいう。

【よせ。かまうな】と、介は、そのたびに、箭四郎を眼で抑えていた。

箭四郎の方が、年上であるけれど、介がいつも止め役だった。

若い血気さにおいては、当然、介の方が先に逸るべきであるが、彼には、以前の苦い経験があるので、じっと虫を抑えているのであった。

「ここを去ること遠からず(観経)」(下旬)ゴリラでさえも1日を感謝して、手を合わせている

昭和34(1959)年4月、全国小学校作文コンクールで一等賞になったある作文がありました。

新潟県燕市の燕小学校6年生、品川ツトム君が書いたその作文は

「恩」

という題名でした。

昭和34(1959)年4月、燕小学校の生徒が修学旅行で関東に行くことになりました。

担任の先生が参加希望者の数を数えると、1人だけ手を挙げたり下げたりする子がいました。

先生が注意したその子が品川ツトム君でした。

涙を浮かべて謝るツトム君に、先生は家庭の事情を察し、一晩お母さんと相談して翌日返事をするようにと優しく諭しました。

ツトム君の家は、母1人子1人で、生活保護をもらって何とか暮らしている状態でした。

ツトム君のお母さんは、町外れの工場に勤め、毎日疲れ果てながらも息子の成長を楽しみにして、きつい肉体労働に従事していました。

その日家に帰ってきますと、いつもは元気よく出迎えてくれるツトム君が、奥の仏間で1人父親の写真に向って手を合わせて泣いていました。

泣いているツトム君を心配して理由を尋ねるお母さんに、ツトム君は学校での出来事を話しました。

旅行に行きたい。

しかし、今の家の状態ではそれも出来ない。

お父さんさえいてくれたら。

お父さんが恋しい、寂しいと涙を流して訴えかけました。

お母さんはそんなツトム君を何とかして旅行に行かしてやりたいと、万が一にと貯めた5・6枚の千円札を渡しました。

ツトム君は、お父さんがいないと不平を言った自分に、こんな尊い母を恵まれたことは何という幸せかと有り難さをかみしめ、関東への旅行に行きました。

旅先の東京上野動物園でツトム君が見たのは、朝日夕日に向って拝むゴリラの姿でした。

その姿に、ゴリラでさえも1日をこんなに感謝して手を合わせて生きている。

人に生まれたこの身が、昨日も今日も不平不満で日を送ったとは、なんという愚か者であったやらと、涙に綴られた作文が

「恩」

という作文でした。

この話を通して、私たち自身を振り返ってみるとどうでしょうか。

毎日が恵まれた環境でありながら、不平不満で日々を送り、感謝の念を忘れています。

大悲の親・阿弥陀如来は、今このとき、十劫の時間空間を超えて、我らが世界へ立ち顕れてそのおこころを

「去此不遠」

すなわち、阿弥陀如来

「ここをさること遠からず」

と説いておられます。

どこにましますかというと、それは道を求める心、法を求める心、悩み苦しみに泣きぬれている我が心。

私の外側ではなく、私の心のその中に、やるせない親の願心として来てくださいます。

この身が、罪悪と煩悩の暗闇を抱える私だからこそ、永劫のご苦労を果たされた大悲の親さまが、今、私の世界の中に来てくださり、共に歩んでくださるのです。

その幸せの中で手を合わせて生かさせていただくのが、ご当流、浄土真宗のお称名念仏だと頂戴させていただきます。