投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

小説 親鸞・乱国篇 唖の世 11月(3)

「弟か、よいところへ」と、範綱は、もう宗業が同行するものと独りぎめに決めて、歩みだしていた。

「粟田口の大僧正のもとへ、添削の詠草を、持って参ろうと思う。

そちも来ぬか」

「参りましょう」

「そして、帰りには、日野へ立ち寄って、十八(まつ)公(ま)麿(ろ)の笑顔を見よう」

「見るたびに、大きゅう育って参りますな」

「ははは。

嬰児(あかご)じゃもの、育つは、当たりまえだ」

「でも、十日も見ぬと、まるで変わっているから驚く」

「おまえも、こしらえたらどうだ」

「なかなか」宗業は、首を振って、

「平家といえば、平家の端くれでも嫁に来てがあるが、落魄れ藤家の、それも、御所の書記などの小役人へは、今の女性は、嫁にも来ないからなあ」と喞(かこ)った。

「――といって、従四位藤原朝臣と、痩せても枯れても、位階があれば、雑人や、凡下の娘を、妻にも持てず……」

空地の牛が、晩秋の長閑な陽なたに寝そべって、悠長な声を曳いて、啼いていた。

弟の喞(かこ)ち語(ごと)に、範綱は、同情をもって、うなずいた。

けれどもまた、妻をもち、沢山な子をもち、位階と貧乏の板ばさみになって、老さらばえっている同族の彼よりは、まだまだ独り身が気楽なのだ――とは、いつも、彼が弟をなだめる言葉の一つであった。

範綱、有範、宗業。

こういう順に、男のみの三人兄弟ではあるが、長兄の範綱は歌人だし、中の有範は、皇后大進という役名で、一時は御所と内裏(だいり)とに重要な地位を占めていたが、今は洛外にああして隠遁的にくすぶっているし、末弟の宗業は、書記局の役人で、どれもこれも時勢に恵まれない、そして生活力に弱い公卿ぞろいなのである。

そのくせ、当代、和歌では、藤原範綱といえば、五指のうちに数えられるほど著名な人物であるし、また末弟の宗業も、天才的な名筆で、早くから、写経生の試験には合格し、十七歳のころには、万葉集全巻を、たった十日で写したというので、後白河帝の御感(ぎょかん)にもあずかったほどな、秀才なのであった。

だが、どんな天才でも秀才でも、歌人(うたよみ)や、書家では、今日の社会が、その天稟(てんぴん)を称えもせず、用いもしないのである。

それが、藤氏や源氏の家系の場合は、なおさらのことで、むしろ、自分を不幸にする才能とすらいえないことはない。

しかし、そうした生き難い世に生きても、兄弟は、心まで貧しくなかった。

眺めやる七条、五条の大路には、糸毛の輦(くるま)、八葉の輦、輿(こし)や牛車が、紅葉をかざして、打たせて居るし、宏壮な辻々の第宅(ていたく)には、昼間から、催馬楽(さいばら)の笛が洩れ、加茂川にのぞむ六波羅の薔薇(しょうび)園(えん)には、きょうも、小松殿か、平相国かが、人招きをしているらしく、蝟集(いしゅう)する顕官の車から輦から、眼もあやなばかり、黄金の太刀や、むらさきの大口袴や、ぴかぴかする沓(くつ)や、ろうやかな麗人がこぼれて薔薇園の苑(にわ)と亭にあふれているのが、五条橋から眺められたが、

(羨(うらや)ましい)とは感じもしなかったし、なおのこと(不都合な平家)などとは、思いもしなかった。

平家を憎悪する気力すらないのが、今の藤原氏であり、源氏の果てであった。

「オ。……ここじゃ」いつか、粟田口へ、二人は来ていた。

十(じゅう)禅師(ぜんじ)の辻まで来ると、範綱は、足をとめて、

「弟、御門外で、待っているか、それとも入るか」と宗業に訊いた。

※「十禅師」=日吉(ひえ)山王七社権現の一つ。ニニギノミコトを権現と見奉っていう称。地蔵菩薩の垂迹で法華経守護の神という。

小説 親鸞・乱国篇 唖の世 11月(2)

 空地が半分以上も占めている六条の延寿院付近は、千種町というのが正しいのであるが、京の者は、源氏町と俗によんだり、また、平家方の雑人(ぞうにん)になると、

「牛糞(うしぐそ)町(まち)」などといった、振るわない門族の果てを、住宅地の呼び名にまで嘲侮(ちょうぶ)することを忘れなかった。

若狭(わかさ)守(のかみ)範(のり)綱(つな)は、そこに住んでいた。

源氏ではないが、院の歌所の寄人(よりゅうど)たちの官舎は、昔からその地域内にあるのだからしかたがなかった。

なぜ、この辺を牛糞町というかというに、人間の住む地域に、

「六条お牛場」というのが割り込んでいて、汚い牛飼い長屋だの、牛小屋だのが、部落みたいに散在している上に、空地には野放しの牛が、白いのだの、斑(ぶち)だの、茶だの、随所に草を食っていて、うっかり歩くと、文字どおり、豊富な牛糞を踏みつけるからであった。

だから、秋になっても、なかなか蠅が減らなかった。

歌人である範綱朝臣は、永く住み馴れた邸(いえ)ではあったが、それでも時々、

(蠅のいないところに住んでみたい――)と、つくづく思うくらいだった。

しかし、保元、平治以来の戦つづきに、歌人などは、まったく、無用の長物と忘れ去られて、ことに、為政者の眼からは、

(歌よみか。

歌よみなら、牛糞町に住ませて置くのが、ちょうどよろしいのだ)と、視(み)られているかのようであった。

生活力のない歌所の歌人(うたよみ)たちは、それに対して、不平の不の字もつぶやけなかった。

「ちっ」範綱は、机をわきに寄せた。

硯(すずり)に、紙に、たかっていた秋の蠅が、彼と共に、うるさく起つ。

「奥所(おく)――」妻をよんで、

「粟(あわ)田口(だぐち)の慈円様へ、久しゅう、ごぶさた申し上げているで、おあずかりの歌の草稿、お届けいたしながら、ご機嫌をうかがってくる」

「きょうは、ご舎弟様が、お見え遊ばしはしませぬか」

「御所の戻りに、寄るとはいうたが……。

よいわ、いずれ、帰りには、日野の有範の邸へ立ち寄るほどに、そこで、会おう」

日野へ立ち寄るというと、彼の妻は、

(またか)というように、微笑んだ。

子のない彼は、弟夫婦の邸に、子が生まれてからというもの、三日に一度は、どうしても、訪れてみねば気がすまないらしかった。

「行ってらっしゃいませ」妻の声のうしろに、籬(まがき)の菊花に眼をやりながら、我が邸(や)の門を出ると、

「やあ、兄上」末弟の宗業(むねなり)朝臣が、ちょうど、門前に来あわせて、

「どこへ、お出かけですか」と、肩をならべた。

※「寄人」=中古、記録所・院文殿などの主(さか)典(ん)で、庶務・執事などの職員。和歌所の職員。

『難信の法』

浄土真宗の教えは、阿弥陀仏の本願を信じ、ただ念仏を称えて仏になるという教えです。

したがって、これ以上に易しい仏道はありませんので、親鸞聖人はこの念仏道を易行の極致だと述べておられます。

では、なぜ南無阿弥陀仏を称えるだけで、私たちは仏になることが出来るのでしょうか。

このことについて、法然聖人は念仏には勝易の二徳があるからだと教えておられます。

一は

「勝」

の意ですが、それは名号の功徳を指します。

仏は、ご自分の功徳の一切を名号に施され、その名のごとき仏になられるからです。

したがって、この念仏者には、光明無量・寿命無量という最高の仏の功徳が有せられることになります。

念仏者は、その最高の功徳を行じますので、この念仏が仏果に至るための、最も勝れた行になるのです。

二は

「易」

の意で、称名念仏は誰でも、いかに愚かで劣った者でも行じることが可能です。

しかも、どのような時間でも場所でも、またたとえどんな心の状態であっても称えることができますので、これより易しい行はありません。

そこで、阿弥陀仏は本願に

「南無阿弥陀仏」

を成就し

「ただ念仏を称えて往生せよ」

と願われているのです。

ところで、

『無量寿経』や

『阿弥陀経』

の結びに、一切の衆生にこの念仏の法を勧めながら、この教えを信じることは難の中の難であって、これに勝る難はありえないほど、念仏の法はまことに信じ難い教えだと説かれています。

これは、いったい何を意味しているのでしょうか。

ここで私たちは、愚かな凡夫の哀れで悲しい心を見つめなくてはなりません。

私たち凡夫が信じることのできる教えとは、理性的に判断が可能な教えであり、努力して具体的に結果が得られる教えだからです。

さらに、自分の欲望を満たしてくれそうな教えも信じられます。

たとえば仏道として

「座禅せよ、心が鎮まる」

「一心に行道せよ、心身が堅固になる」

と教えられると、これは容易に信じられます。

実際、座禅しますと、心が鎮まり安らかになるからです。

けれども、たとえ一時的に安らかな心を得ることができても、私たちは嫌なことに出会えば、その心はすぐに乱れます。

だとしますと、凡夫がいかに一心に座禅を組んだからといって、悟りの心が得られる訳ではありません。

この場合、教えは信じやすいのですが、行は極めて難行で、凡夫がいかに一心にこの行を修しても仏果を得ることは不可能です。

それに対して、浄土真宗では

「ただ南無阿弥陀仏を称えれば仏になる」

と教えられるのですが、この教えは愚かな凡夫にとっては、理性的に考えても、また行道としても、さらには世俗の欲望を満たす行為としても、全く何も心には響きません。

その行為は、いかに容易であっても、教えそのものはまさに難信であって信じ難いのです。

それは

「仏に成る」

とはどういうことか、また人間とは何かを私たちは本当のところよく分かっていないからだと言えます。

その意味では、浄土真宗の教えも仏果への道は極めて困難だといわねばなりません。

ここに、聞法を重ねて行くことの重要さがあります。

マコモダケという植物を知っていますか。

マコモダケという植物を知っていますか。

マコモダケの歴史は古く、お釈迦さまがその葉でムシロを編み、その飢えに病人を寝かせて治療をしたという話もあるそうです。

また、日本では万葉集にも登場し、マコモダケから採取した黒穂菌の胞子はマコモズミと呼ばれ、お歯黒や眉墨、漆器の顔料などに用いられてきたそうです。

そんな古い歴史のあるマコモダケに私が出会ったのは、2年前のことでした。

東京の炉端焼き屋さんで、運ばれてきた野菜の中の1つにこのマコモダケが入っていました。

見た目は細いタケノコ…といった印象でした。

あまり見慣れない食材なので、気になりながらも食指がのびず、とうとう最後まで残ってしまいました。

勇気を出して一口食べてみると、アスパラガスのような食感に、癖のない味で、あっという間に食べてしまいました。

帰りがけ店員さんに

「あのタケノコのような細い食材は何ですか」

と尋ねると、

「マコモダケです」

という、初めて聞く名前が返ってきました。

それからずっと

「マコモダケはどこで買えるんだろうか」

と探していると、偶然見たテレビ番組で

「9月末からマコモダケが店頭に出ます」

という情報を目にしました。

スーパー等で見かけることはあまりありませんが、鹿児島でも手に入るみたいです。

9月末から11月初めの頃までという短い期間でしか食べることの出来ない

「マコモダケ」

今を逃すと、来年の秋までは口に出来ないので、興味のある方は、ぜひ一度食べてみてください。

くせがないので、さっと茹でたり、グリル焼き、炒めものにも向いているほか、新鮮なものは生食してもおいしいですし、細かく刻んで餃子、ハンバーグ、チャーハンなどに用いることもできます。

『幸せだから感謝するのではない 感謝できることが幸せである』

私が最近、とあるご門徒の方の家に、入仏式というお仏壇をご家庭におむかえする法要を勤めに行った時のお話です。

仏壇の前にとある物が置いてあるのです。

何かといいますと、この間発売されたばかりの『オータムジャンボ宝くじ』の束が置かれているのです。

宝くじが置かれていることはわかっておりましたが、私はあえてそれが何かを尋ねてみました。

すると門徒さんは、こうおっしゃいます。

『ご覧のとおり、宝くじです。

今度こそは当たってほしくて、新しくお迎えしていく仏さまに当たるようにお願いしようと思って…』とおっしゃるのです。

なるほどなぁ、と思った私は『では、宝くじがもしあたったらどうされますか?』と、尋ねてみました。

すると、『もちろん、仏さまに感謝致します。

そのお金で仏壇ももっと立派にしたい』とおっしゃるのです。

なので、さらに私はこう聞いてみました。

『では、もし当たらなかったらどう思われますか?』

するとこう答えが返ってきました。

『それは残念ですね。

あてにならない仏さまですね(笑)』

と言うのです。

私は、苦笑いをせざるを得ない状況でした。

本来、お参りをするということが教えをいただいて、心豊かになるべき縁とであるはずなのに、それが自分の欲求をみたすためのお参りになってしまっているわけです。

この場合ですと、宝くじが当たったら仏さまに感謝する、当たらなかったらあてにならないと言って、感謝しないといった状況になってしまっているのです。

お参りをして、仏前に手をあわすといった行為が、単なる自分の都合を満たすための手段になってしまっているのです。

仏前に手をあわすということは、大切なことにきづかせていただき、その瞬間があることが有難いと思わせていただけることが重要ではないかと思います。

人生はなかなか思いどおりにはなりませんし、そんな中で幸せを感じることができたならば、感謝する心がわいてくるということがあるのかもはしれません。

ですが、感謝することができるというのは、また手をあわすご縁があるということは『生きている』、ということではないでしょうか?

生きているということは、誰かに、何かに支えられていてこの瞬間があるということではないでしょうか?すなわち、日常生活の中で感謝することができたという中に自分自身を、大切ないのちを知らされる仏法にであえたのではないかと思います。

生きている(支えられている)からこそ感謝する実感があるのではないでしょうか?

今日もこうして、感謝の気持ちで、手をあわせて、命あることにきづかせていただき、今日の日の尊い命をせいいっぱいおくらせていただきたいものですね。

それを積み重ねていくことで命の美しく大きな花が咲いていくのではないでしょうか。

私もいま、こうして執筆させていただくなかで、いのちあることを深く感じ、感謝の気持ちをもつことができた次第です。

有難く味あわせていただきたいと思います。

南無阿弥陀仏。

小説 親鸞・乱国篇 第一の声 11月(1)

「これを、鞍馬の遮那王様へ、さし上げてくれいと、おん奥の方のお伝えでござる」

小筥を前に、侍従介がいう。

平たい塗筥(ぬりばこ)である。

ゆるしをうけて、吉次は、そっと、蓋をとって見た。

伽羅(きゃら)の香が、煙かのように、身をくるむ。

白絹でつつんで、さらに、帙(ちつ)で抱いた愛らしい一帖の経本が入っていた。

紺紙に金泥(こんでい)の細かい文字が、一字一字、精緻な仏身のように、端厳な気と、精進の念をこめて、書かれてあった。

「どなたの、ご写経でございまするかな」吉次がいうと、

「されば」侍従介は、改まった。

「お従弟にあたる遮那王様の孤独を、人知れず、おいとしがられて、吉光御前様が、日頃から、心にかけて遊ばされたもの。

……その由、鞍馬へ、おつたえして賜れ」

吉次は、ちょっと、不満な顔色を見せたが、押しいただいて、ふところに納めながら、

「そのほかには?」

「おことばでもよいが――くれぐれも、亡き義朝公、源家ご一門のため、回向をおこたらずご自身も、朝(あけ)暮(くれ)に仏道をお励みあって、あっぱれ碩学とおなりあるようにと……。

おん奥の方、また、お館様からも、ご伝言にござりまする」

「承知つかまつりました。

では、これで……」吉次は、元の裏門から外に出た。

宵よりも、星明りが冴えていた。

夜は通る人もない日野の里だった。

「なんのこった……」苦労して、訪ねてきただけに、期待が外れて、彼は、がっかりした。

吉光御前の思いやりと、自分や自分の主人秀衡が考えている思いやりとは、同じ遮那王にもつ好意にしても、まるで、性質がちがっていたことを、はっきり、今、知った。

自分の主人、秀衡は、遮那王を、仏界から下ろして、源氏再興の旗挙げをもくろんでいるのであるし、吉光御前や、有範朝臣は、あべこべに、遮那王が身の終わるまで、鞍馬寺に、抹香いじりをしていることを、祈っているのだ。

なるほど、それは、遮那王の身にも、彼の従姉にも、無事な世渡りにちがいない。

だが、そうして、源家のわずかな血脈が、一身の安立ばかり願っていたら、源氏はどうなる。

平家をいつまでも、ああさせておくのか。

また、路傍の飢民をどうするかである。

彼はもちまえの東北武士らしい血をあらだたせて、さりげなく、預かって出た写経の塗筥を、手につかんで、唾をした。

「こんなもの!遮那王様に渡しては、ご立志のさまたげだ」

築地の下の溝へ向かって、砕けろとばかり、たたきつけた。

汚水にそれを叩きつけたが、とたんに彼はふと、吉光御前のやさしい姿を瞼に見た。

光ある人間のあたたかな魂へ、土足をかけたような、惧(おそ)れに襲われた。

椋の葉のしずくが、背にこぼれた。

ぶるっと、何げなく、築地のうちの屋根の棟を振り向いた。

しかし、さっきの光りものも見えない。

何の異も見出せなかった。

だが、その時、彼の耳をつよくうったものがある。

生まれて間もない嬰児の声だ。

十八公麿が泣くのだった。

その声は、ただごとでない、地殻を割って、万象の芽が、春へのび出すような力のある、そして、朗らかな、生命の誕生を、世に告げるような声だった。

「あっ……」吉次は何ということもなく、竦(すく)みあがった。

両手で耳をおおって、暗い野を、後ろも見ずに駈けていた。

※「帙」=書物のいたみを防ぐために包むおおい。厚紙に布をはって作る