投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

小説 親鸞・乱国篇 唖の世 11月(5)

「僧正は、おすこやかですか」

「ウム、お変わりない」

「和歌も、おすすみでしょうな」

「ご上達だ。

われらにも、およばぬお歌が時々ある」

「しかし、俗衆の中に生活している吾々のうたうのと違って、ああして、名門に出て、深堂の座主となられていては、花鳥風月の心はわかっても、ほんとに、人間の悩みとか、涙とか、迷いとか、そういう歌は、お分かりにならぬでしょう」

「いや」範綱は、首を振った。

山萩の寝ている野道を曲がって、狭いだらだら坂を先へ降りて行きながら、

「そうでないな」

「そうでしょうか」

「世間のことも、実によう知っておられる。武家達の行動、政治の策謀、院のお出入り。……ただ、知らん顔をいておられるだけじゃよ」

「ははあ」

「知った顔をせぬことが、今の時代には、賢明な、君子の常識じゃ。

まして、名門のお子はな」

「なるほど」

「こんな事も仰せられた。

――この坂下の吉水に、ちかごろ、年四十ばかりの、ひょんな法師があらわれて、念仏専修の教義をしきりと説いておるが、凡僧の月並みと違って、たまたま、よいことばがある。

――参内のせつ、おうわさ申し上げたことじゃったが、武権争奪、武門栄華の世ばかりつづいて、助からぬは民衆ばかり。

その民衆のために、民衆の魂を、心から、救うてとらすような聖が出てくれねば、仏法の浄土とは、嘘になる。

――そうした折りに、吉水の法師は、待たれていた旱(ひでり)の雲じゃ。

帰途(かえり)に、一度、そちたちも聴聞してゆくがよいと、いわれたがの」

「ほ。……そんなことまで、ご存じでしたか」

「おしのびで、御門を、お出ましになるのであろう」

「吉水のあたりに、このごろ、熱心な念仏行者が出て、雨の日も、風の日も、説法しているという噂は聞きましたが」

「道のついでじゃ、廻ってみようか」

「さよう――」たいして、心をひかれるものでもなかったが、二人は、粟田口の僧正が、それほど、称える僧とあれば、どんな法師か、姿だけでも、見ておいてもいいというくらいな気持で、立ち寄った。

歌の中山や、清水の丘や、花頂山の峰々に抱かれて、そこは、京の町を見下ろした静かな盆地になっていた。

「お……なるほど………たいへんな人群れだ」吉水の近くへ来ると、祇園林や五条や、また、四方(よも)の道を遠しとも思わないで、ぞろぞろと、集まってくる往来に、二人は、顔を見あわせた。

仕事の隙間に駈けてきたような百姓や、木挽や、赤子の手を引っぱった婢(かみ)さんや頭に荷を乗せている物売りや旅人。

――またやや反感を眼にもって紛れこんでいる他宗の法師とか、被(か)衣(ずき)で顔をかくしている武家の娘とか、下婢(かひ)とか、侍とか、雑多な階級が、一色になって、そこの小さい三間ばかりの禅室へ、ひしひしと、集まって行くのだった。

「……何という勢いだろう」宗業も、範綱も、唖然(あぜん)として、このすさまじい人間の群れにうたれていた。

すり切れた草履に、埃を立て、わらわら、ここへ群れてくる人々の眼には、一滴の水でもいい、何ものでもいい、心のやすみばを――心の息づきを――干からびきった魂の糧となるものならばと、必死に求めているような顔つきに見えた。

私が、小学校1年生の時の国語の教科書に、非常に印象深いお話がありました。

私が、小学校1年生の時の国語の教科書に、非常に印象深いお話がありました。とはいっても、実は長い間この話を特に思い出すということはなかったのですが、大人になってから自分がしていることを振り返った時、突然少年の日の記憶が鮮やかによみがえってきたのです。おそらく、心の奥深くに刻み込まれて、眠っていたのだと思われます。

このお話の記憶がよみがえった時、私は「もしかすると、このお話が自分でも意識しないところで、自分の生き方に影響を与えたのかもしれない」と思いました。

そこで、ふと気になって、最近インターネットで検索したところ、私と同じようにこのお話を記憶に留めている人が多かったようで、すぐに見つけることが出来ました。そして、それが『小さい白いにわとり』という題で、ウクライナ民謡であったことを初めて知りました。

お話の概要は、小さい白いにわとりが、豚と猫と犬に向かって、誰が麦をまくかを問いかけるところから始まります。にわとりの問いかけに対して、いずれも「いやだ」と答えるので、にわとりは独りで麦をまきます。

次に、にわとりが、誰が麦を刈るかを問うと、いずれも「いやだ」と答えるので、にわとりは独りで麦を刈ります。それ以降も、誰が粉にひくか、誰がひいた粉をパンに焼くかを問うのですが、豚と猫と犬の答えはいつも「いやだ」です。

ところが、いよいよパンが焼きあがり、小さい白いにわとりがみんなに向かって誰がパンを食べるかを問うと、今度は豚も、猫も、犬も「食べる」と答えるというものです。

そして、このお話はそこで終わり、それから後のことについては何も書かれてはいません。まるで「あなたが小さいしろいにわとりなら、どうしますか」と問いかけているかのようです。

インターネット上では、このお話の内容に対して、いろいろな見方から様々な所感が述べられています。けれども、その大半は「大人の視点」からのものです。「なるほど、そういった受け止め方もあるのか」と感心するものもありますが、私が子ども心に思ったのは「何かを成し遂げるためには、小さい白いにわとりの役目を果たす存在が必要だ!」ということだったようです。もちろん、子どもですから、明確にそのようなことを自覚した訳ではありません。けれども、強く心に残ったことだけは確かだと思います。

大人になってから、例えば宴会でいうと幹事、行事でいうと企画・進行係。苦労は多いものの殆ど脚光を浴びることのない、いわゆる「裏方」の役割になるのですが、なぜかそれらを進んで担うことがよくありました。そして、法要・研修・集いなどの催しが終わり見送りをする際、ねぎらいの言葉とかもらわなくても、来れられた方々がそれぞれに満足そうな笑顔で帰途につかれる様子を見ていると、それだけで苦労が報われる思いがしてきました。

催しは規模が大きくなればなるほど「全員一致協力」ということが理想的な在り方なのですが、中には非協力的な人、あるいは協力しないばかりか進め方の批判をしたりする人もいたりします。しかも、そういう人に限って、目立つ場所に立ちたがったり、自分勝手な行動を取ったりすることが少なからずあります。

凡人ですから、そういう人達の心ない言動に対して腹を立てたり、文句の一つも言いたくなってしまうこともあったりするのですが、ある時ふと「あっ!自分は小学校1年生の時の教科書に載っていた、あの白い小さいにわとりと一緒の役回りをしているな…」と、突然このお話を思い出したのです。そして、自分が何らかの役割を果たすことで、誰かの役に立ったり、それを喜んでくれる人がいたりするし、何よりもそれが同時に自分の喜びにもなっているような気がしました。

仏教では、菩薩が人々を救うはたらきを「利他」という言葉で言い表しています。私は、自分のしていることが、菩薩の利他行には決して遠く及ばないことを十分すぎるくらいに承知していますが、もしかするとその方向性だけは相似しているかもしれないと思ったりもしています。

「少年の日に出会ったお話が、無意識の内に心の奥に刻まれ、自分の生き方を決定付けた」そう思うと、もしかすると「大切なことは、物語を通して伝わるのではないか」というような気がしています。そして、物語に出会った時には特に意識するということがなかったとしても、その物語に託された願いのようなものが物語の記憶と共に心の奥深くに刻まれるということがあるならば、その願いはやがて人生のどこかで華開くのではないかと思ったりしています。

そうすると、いま社会問題化している「いじめ」と、なかなか消えることのない「差別」の問題も、幼少期からそれがいかに愚かで人間として恥じるべきことかということを、物語を通して心に刻み込む営みが大切なのではないか。そのためには、今自分に何かできることはないか…、そんなことを秋の夜長に考えていることです。

 

『幸せだから感謝するのではない 感謝できることが幸せである』

平成24年11月(中期)

♪何が君の幸せ何をして喜ぶ

答えられないなんてそんなのは嫌だ♪

これは、長きに渡って幼児に絶大な人気を誇る

「アンパンマン」

の主題歌のフレーズです。

人間は誰もが、生まれた以上は幸せになりたいと思っている存在だと言えます。

また、科学の発達はそのような人間の願いをかなえるための歴史であったとも言うことができるように思われます。

ところで、私たちはどのような時に自分は

「幸せだ」

と感じるでしょうか。

また、反対にどのような時に

「不幸せだ」

と歎くでしょうか。

考えてみると、同じ状態であっても、自分より幸せに暮らしている人を見ると自身は不幸せであるように感じますし、自分より不幸せな暮らしをしている人を見ると自身は幸せであるように思えたりもします。

つまり、私たちの

「幸せ」

は、いつも他人との比較の中で考えられ、揺れ動いているのではないでしょうか。

仏典に

「猿智慧」

の話がありますが、それは次のような内容です。

ある海岸に近い山の中に、五百匹を超える猿が住んでおり、それは鬱蒼(うっそう)と繁った森の中で生活をしていた。

ところがある日、太陽に輝く彼方の海をじっと眺めていると、寄せては返す大波小波が、目もまばゆいばかりに明るさと輝きを示している。

それをいつも見ていた猿達は、やがて自分の棲んでいるところが、暗くて鬱陶(うっとう)しい森の中であることが耐え難くなった。

「あの彼方に大きくうねってくる波の山、あれは宝石を散りばめたように美しく輝いている。

おそらくあそこへ行ったならば、あの輝きにふさわしい生活があるだろう。」

こう考えて、勇気のある若い猿が自分達の棲んでいる森を抜け出して、大きく輝いている波の山の中へ飛び込んで行ってしまった。

ところが、その若い猿は、飛び込んで行ったきりいつまでたっても帰って来ない。

その帰って来ないことに気が付いた他の猿達は

「それ見ろ、あそこはとても美しい美しいところだから、あいつはその幸せを独り占めして幸福にひたっているに違いない。

だから俺達を呼びに帰っては来ないのだ。

だいたい、あいつはもともと狡賢い奴だったから、今頃は独りで楽しい生活をしているに違いない。

あいつに独り占めさせてはならない。

それ急げ!」

という訳で、五百匹の猿が次から次へと波の山の中へ飛び込んで行ったが、ついに一匹も帰ってこなかった。

この話から、私たちの幸福を求め理想を追うという心の中には、猿智慧が隠されているということを教えられるような気がします。

「隣の花は赤い」

とか

「隣の芝生は青く見える」

と言われますが、それは、私たちはいつでも他人と比べるところでしか幸せを考えていないということです。

けれども、そのようなあり方においては、結局

「空しかった」

という言葉で、私の人生の全てが惨めに砕け散ってしまうことにならざるを得ません。

考えてみますと、私のいのちは、私には自らが作ったという覚えもなければ、頼んだという覚えもないのですが、今ここにこうして私を生かしめています。

そして、たとえ自らに絶望して

「死にたい!」

と思っても、胸の鼓動は

「生きよ!」

と力強く働いています。

そうすると、他の誰でもなく、この私が自身のいのちを喜ぶということがなければ、本当の意味での喜びを得るということはできないのではないでしょうか。

それは、自分が自分に生まれて良かった、私が私の人生を生きていくということに安んじて生きていける、誇りを持って生きて行けるという事実に出遇わなければ、本当の意味での幸せを手にすることはできないということです。

「必要にして十分な人生」

という言葉があります。

私たちの人生には無駄なことなど一つもないということですが、それは嬉しいことや楽しいことだけではなく、辛いことや悲しいことも、その一つひとつが私の人生を彩ってくれていることを教えている言葉です。

そして、そのような人生を生きることに目覚めた時、私たちは人生で出会うすべてのことに感謝をしながら生きていくことが出来るようになるのだと言えます。

そして、ここに幸せだから感謝するのではなく、感謝できることが幸せであると思えるような人生が展開していくのだと思われます。

「教行信証」の行と信(11月中期)

次に

ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲す。

広く三経の光沢を蒙りて、ことに一心の華文を開く

という文に注意してみます。

ここで

「一心の華文」

とは、何かが問題になります。

「信巻」

の一つの中心問題は、三一問答だと言われています。

三一とは、三心と一心の関係を意味します。

その三心と一心の関係ということですが、周知のように第十八願で阿弥陀仏は

「至心信楽欲生」

という三つの心を誓われています。

この

「至心信楽欲生」

の三心によって、一切の衆生を往生せしめようと誓っておられるのです。

ところが、天親菩薩は、その本願の心を

『浄土論』で

「世尊我一心帰命尽十方無碍光如来願生安楽国」と

「一心願生」

と、とらえられます。

つまり、天親菩薩は釈尊に対して

「私は阿弥陀仏に帰依しその浄土に生まれたいと一心に願っています」

と、『浄土論』の冒頭で述べられるのです。

そうしますと、本願には三心による往生が誓われているのに、天親菩薩は一心による往生を

『浄土論』

で説いておられますので、この三心と一心の関係は一体どうなるのかが問題となる訳です。

つまり、本願の心と

『浄土論』

の思想は矛盾するかしないかが、親鸞聖人にとって一つの大問題になったのです。

その疑問が

「諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲す。

広く三経の光沢を蒙りて、ことに一心の華文を開く」

とあるように、釈尊や七高僧の教えによって解決されたというのが

「一心の華文を開く」

という意味で、これが三一問答の結論になります。

すなわち、天親菩薩の一心願生の意味が明らかになったということが、一心の華文を開いたということになるのです。

では、次の文

「一心の華文」

を開いたにもかかわらず、その後に

「しばらく疑問を至してつひに明証を出す」

と述べられるのは、どのようなことなのでしょうか。

それは、一心の華文を開くことが出来たが、その奥に未だ解決できてない疑問が残っていた。

だが、その疑問が今やっと根本的に解決された。

それが

「明証を出す」

という言葉になります。

では、

「しばらく疑問を至した」

というのは、どのようなことだったのかということが、ここで改めて問題になります。

ところで、この点を今までの宗学者はどのように考えていたのでしょうか。

ほとんど例外なく、この

「しばらく疑問を至す」

を三一問答のことだとしているのです。

しかし、それは日本語としての文章の流れから見て、明らかにおかしいといわねばなりません。

なぜなら、もしこの

「しばらく疑問を至して」

が三一問答のことだとすれば、文章的には

「しばらく疑問を至して、ついに一心の華文を開く」

となるはずです。

ところが、親鸞聖人はそのようには述べておられません。

「三一」

の疑問が明らかになった後に、しかも再び

「しばらく疑問を至し」

ておられるからです。

そこで、改めてこの疑問とは何かということが、大きな問題になります。

「家族の絆地域の絆」(中期)お年寄りが社会活動の一端を担う

皆さんに少しお願いなんですが、まだ社会のために働かなければいけないと思うんです。

もっと社会のために出てきたらいいのに。

いのちの電話のボランティア活動をしたらいいのに。

もっとお年寄りの方が社会活動の一端を担えばいいのにと思います。

コミュニティ心理学といのちの電話の関係についてのご質問がありましたが、コミュニティ心理学というのは地域全体のこころの健康を整備していきましょうということです。

今までの心理学というのは、個人を治療することだけを考えていましたが、コミュニティ心理学は、そのままでもいいんですよ、そんなあなたでもやっていけるように周りを変えましょう、周りの人があなたと上手にやれるように変えていきましょう、そういう考え方でやっています。

だから電話をかけてくる人を援助するだけではなくて、数10名のボランティアの方がいらっしゃいますが、そういう方を教室を開いて養成していく。

悩んでいる個人をお手伝いすることもしますが、同時にコミュニティ、地域や環境を整備していく。

わかりやすく言いますと、車イスだけれども不自由しない環境を準備してあげたらいい訳です。

お話ができないけれども不自由しない。

個人を鍛えるだけでなくて、治療するだけではなくて、社会を同時に変えながらうまく出来るようにしましょう。

これがコミュニティ心理学です。

これでいのちの電話とつながりましたかね。

ほかの例で言いますと、私は知恵遅れの子どもさんや自閉症の子どもさんも治療しているんですが、本人たちを一生懸命治療するだけではなくて、親を、先生を、兄弟をいろいろ一緒に教育していくというか、そしてこの子が暴れた時にはこんなにすればいいんだよとか、暴れるには理由があるわけですから、そういうことを兄弟にも教えていくのです。

それがコミュニティ心理学。

本人個人だけでなくその環境にも働きかける。

周りの人が接し方を十分に心得てくれたら不自由しない。

そういうことを周りが理解していくことで随分やりやすくなっていく、それがコミュニティ心理学的なアプローチの一つであります。

小説 親鸞・乱国篇 唖の世 11月(4)

「私は、外で待っていましょう」と、宗業はいった。

「そうか」範綱は、ちょっと、考えていたが、眼の前の、青蓮院の小門を片手で押しながら、

「じゃあ、今日は、わし一人で、ご拝謁(はいえつ)してこよう。

すぐに、戻ってくるからな」と、中へ、隠れた。

宗業は、塀の外をしばらくぶらぶらしていたが、やがて、鍛冶ケ池のそばへ行って、雑草の中の石に腰をおろし、鮒かなにか、水面をさわがしている魚紋に見とれていた。

時々、顔を上げて、

(まだか)というように、青蓮院の方を、振り向いた。

そこから見ると、青蓮院の長い土塀と、土塀の中の鬱蒼(うっそう)とした樹林は、一城ほどもあって、どこに伽藍(がらん)があるのか、どこに人間が住んでいるのか、わからなかった。

「和歌(うた)の話になると兄上は好きな道だし、大僧正も、わけてご熱心だから、つかまると、すぐには帰れまいて」宗業は、退屈のやり場をさがしながら、兄と、慈円僧正とが、世事を忘れて、風雅を談じている姿を、瞼にえがいた。

僧正はまだ若かったが、山門六十二世の座主であり、法性寺関白忠道の第三子で、月(つき)輪(のわ)禅定兼(ぜんじょうかね)実(ざね)とは兄弟でもあるので、粟田口の僧正といえば、天台の法門にも、院や内裏の方面にも、格別な重さをもっていた。

テーン、カーン、

槌(つち)の音がする。

白い尾花の中に、屋根へ石を乗せた鍛冶屋が見えた。

尾花の中から痩せ犬が、野鼠をくわえて駈けて行く。

犬は、一軒の鍛冶の床下へもぐりこんで、わん!わん!遠くから、宗業へ向かって吠えるのだった。

この野原の部落には、三条小鍛冶という名工がひところ住んでいて、それから、ここの池の水が、刀を鍛(う)つのによいというので、諸国から、刀鍛冶が集まって、いつのまにか、一つの鍛冶聚落ができていた。

そして、下手くそな雑工までが、粟田口の某(なにがし)だの、三条小鍛冶某だのと、銘を切って、六波羅武者に、売りつけていた。

「なるほど……。

今の世には、書をかくより、歌をよむより、刀を鍛(う)つ人間のほうが、求められているとみえる」一軒の鍛冶小屋の前に立って、宗業は、漠然と、鍛冶のする仕事を眺めていた。

真っ黒な小屋の中には、あら金のような、男たちが、鞴(ふいご)をかけたり、炭を焚いたり、槌を振ったり、そして、

テーン!カアーン!火花を、鉄敷(かなしき)から走らせていた。

あっちの小屋でも、こっちの仕事場でも、無数の刀が、こうして作られている。

――やがて、この刀が、何につかわれるのかを考えると、気の弱い宗業は、怖しくなって、そこに立っていられなかった。

「おウい」振り向くと、兄の範綱が、青蓮院の方から、駈けてくるのが見えた。

宗業は、救われたように、

「御用は、済みましたか」

「いや、やっと、お暇(いとま)を告げてきた。

午(ひる)にもなるゆえ、食事をして行けと、仰せられてな、弱った」と、範綱は、貴人の前にひれ伏していた窮屈さから解かれて、伸び伸びと、晩秋の明るい野を、見まわした。

※「鞴」=火をおこすための送風器。たたら。

※「鉄敷」=金属をきたえるのに使う、鋼鉄製の台。かなとこ。