投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「廻向」

「廻向」

という言葉は、仏教用語でありながら、日常語とても一般的に

「故人の廻向をお願いします」

といった表現で使われています。

このような場合、廻向は

「故人のために読経を願い、供養をしてその冥福を祈る」

といった意味になります。

廻向はもともと

「ものを、ある対象に向かってめぐらせ、差し向ける」

という意味です。

では、仏教語としてどのような意味に用いられるのでしょうか。

仏教では常に

「仏になる」

ということを第一義的に求めています。

したがって

「廻向」

もまたその義と深くかかわることになります。

いったい、人はどのような行為をして仏になるのでしょうか。

ここで、二つの廻向が求められます。

一つは仏果に至るための無限の功徳を、自分自身が修行することによって、自らの内に積み重ね、その功徳を自身に差し向け、仏果を得ようとする廻向です。

ただし、自分のためのみに、いかに善根を積んでも仏果には至りません。

その善根功徳をそのまま、他の迷える衆生を利益するためにさしむけられなければならないのです。

ここに今一つの廻向があります。

ところで、これらの二つの廻向を感性させて、この世で仏果を得ようとする仏教が聖道門と呼ばれている仏教です。

もちろんこのような仏道は、理想的にいかれ勝れていたとしても、現実的に実践し完成することは不可能です。

そこで浄土に生まれて仏果を得ようとする浄土門の教えが開かれます。

では、浄土門にとっての廻向とは何でしょうか。

ここにも二つの廻向があります。

第一は、私が成道に生まれるために、私が積んだ善根功徳、とりわけ称名念仏を一心に浄土に向かって廻向すると同時に、その功徳を迷っている人々にも施して、共に浄土に生まれることを願う廻向で、これを

「往相の廻向」

よびます。

第二は、浄土に生まれてからの廻向行で、浄土の菩薩が菩薩行として、浄土から再びこの迷いのせかいにかえって、一切の迷える衆生を浄土に生まれさせようとする

「還相廻向」

とよばれる廻向です。

ただし、愚かなる凡夫には、これら二種の廻向行を実践することは不可能です。

ところで、阿弥陀仏の大悲の本願は、このいかなる廻向行もなしえない、愚悪なる凡夫を摂取しようとされるのです。

だとすれば、私たち凡愚にとっては、

「廻向」

とはすべて阿弥陀仏から来るものということになります。

そこで親鸞聖人は、私たちの往相も還相も、実はすべて阿弥陀仏からの廻向によると、浄土真宗における

「廻向義」

の真実を明らかにされました。

したがって、親鸞聖人は私たち凡夫には、廻向行がないという意味で、私たちの廻向行をことに

「不廻向の行」

とよばれ、凡夫の

「廻向」

をきびしく否定されたのです。

もし、阿弥陀仏の大悲の廻向がなければ、私たち凡愚は誰一人として浄土に生まれることはできません。

廻向は、凡夫から仏に向けられるのではなくて、仏から凡夫に向かう。

これが、親鸞聖人の

「不廻向」

の教えだといえます。

私的なことではありますが、先日夏風邪をひいてしまいました。

私的なことではありますが、先日夏風邪をひいてしまいました。

耳鼻科で薬を処方してもらい、1週間ほど薬を飲んでおりました。

薬を飲んでいると、ただ

「薬を飲む」

と言っても、実はいろんな注意点があることに気づかされます。

まず、薬は基本的には水で飲むことがよいようです。

最近若い人の中には、ジュースと一緒に飲む人も多いようですが、成分によっては影響を受ける薬があるそうなので避けた方がよいようです。

また、お茶を普段から飲んでいる人は、お茶で飲む場合もあるようですが、濃い場合は吸収が悪くなるそうで、薬の効果が十分にでないこともあるそうです。

最近は、水というと、ミネラルウォーターを買って飲むということも多くなりましたね。

実は、一口に水といっても、なんでもいいわけではなくて、硬度の高いいわゆる

「硬水」

と呼ばれる水や、

「海洋深層水」

は、本来の薬の吸収率が低下するおそれがあるそうなので、薬を水で飲む場合は

「軟水」

とよばれる硬度の低い水で飲むことがよいのだそうです。

時々、水なしで薬を飲む人を見かけることがあります。

これは、薬の効果を半減させてしまう行為で、薬は水と一緒に飲むことで、よく溶けて効果を出すのだそうです。

特に、カプセルなどは水なしで飲んでしまうと、食道にくっつき、そこで薬が溶け出して食道の粘膜をいためてしまうことがあるのだそうです。

「薬を飲む」

というのは、特にとりたてて意識するほどのことのない単純な行為であるかのように思えますが、実際にはいろいろな注意点があります。

しかも、本来は身体を健康にするために飲んでいるはずの薬が、用いる際に私たちが用量・用法を守り正しく服用しないと、むしろ健康を損ねてしまうおそれがあるということには、薬に対する考え方を改めさせられる思いがします。

幸い、薬の効果もあって風邪も治り、健康であることの有り難さを感じています。

病気を通して、考えさせられたり、学んだりしたことを大切にしながら、今日もまた尊いいのちを精一杯生きさせていただこうと思います。

『自分の力で生きているものは一つもない』

平成22年の1月より本願寺においては

「食事のことば」

(食前のことば・食後のことば)が新しくなりました。

「食前のことば」

◎多くのいのちとみなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。

○深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。

この

「食前のことば」

について以下の解説を通して味わってまいります。

「食前のことば」

■「多くのいのち」について

「多くのいのち」

と明記していることは、私たちの食事は多くのいのちをいただいているという事実を深く見つめるためにあります。

また、現代社会では

「いただきます」

ということばをあまり耳にしなくなったのではないかということへの反省でもあります。

たとえば、ごくわずかな人のことかもしれませんが、お金を払っているのだから

「いただきます」

と手を合わせる必要はないように考える人もいるようです。

ややもすると私たちも

「いただきます」

ということばを慣習的に発しているだけになってしまってはいないでしょうか。

そこに本当に感謝と慚愧の念がともなっているといいきれる人はどれほどいるでしょうか。

ここに

「多くのいのち」

と明言することで、私たちの日々の食事は多くの動植物のいのちの犠牲の上に成り立っているのであり、そのいのちへ感謝と慚愧を明らかに示すことになります。

私たちは多くの尊いいのちによって、今の自分が支えられている

「おかげ」

に気付くことで、感謝の心が育まれることでしょう。

■「みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました」について

「みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました」

ということばは、目の前の食事を直接調理してくれた人、そして食材をとったり、あるいは食材を運び届けてくれた人など、さまざまな多くの人たちのご苦労のおかげによることを示しています。

なお、従来の食事のことばには、

「み仏のおかげにより、ごちそうをめぐまれる」

という文脈がありました。

これは

「紙切れの一枚にいたるまで、仏さまのおかげと受け止める」

といった広い意味での仏恩と受け止めることができます。

しかし、特にはじめて聞いた方などは、

「み仏が食材を提供する」

というニュアンスで理解される方もいるかもしれません。

このように理解してしまうと、肉や魚も、人間の食用として神が造ったように考えるキリスト教などの創造主の概念と同じとなってしまい、これでは仏教ではなくなってしまいます。

ことに現代は、浄土も天国も同じように考えられてしまいがちです。

したがって、キリスト教など他の宗教と仏教の違いについて誤解されることのないような配慮が、これからもさまざまな場面で必要になってくるでしょう。

ここに言う

「みなさまのおかげ」

は、広く言えばみ仏の御恩をも含めた尊いおかげを言いますが、

「多くのいのち」

と並列・対句とすることで、

「多くのいのち」の犠牲と、

「み仏」

のおかげとは別であることを示し、み仏が創造主と誤解されることを避けています。

その上で

「多くのいのち」

ということばに、私たちの

「慚愧」

の思いを込め、

「みなさまのおかげ」

ということばには

「感謝」

の思いを込めています。

そしてこの二つを受けて、

「深くご恩を喜び」

と結び、食事を通して、単なる味覚ではなく

「ご恩」

を味わう機縁となることを願っているのです。

■「深くご恩を喜び」について

「多くのいのち」

と表明することで、多くのいのちをいただかなければ生きていけない私の本性的あり方に対しての慚愧のこころを呼び起こし、

「みなさまのおかげ」

と表明することでさまざまなおかげによって、いまこの食事をいただくことができ、生きていくことができることに対しての感謝のこころを呼び起こすことを目指しています。

慚愧や感謝のこころを持ち合わせていなかった私に、

「多くのいのち」

をいただいていることへの慚愧と、

「みなさまのおかげ」

によって生きていることへの感謝のこころを起こさせたのは、阿弥陀如来のお慈悲のはたらきによるほかはありません。

「深くご恩を喜び」

と表明しているのは、この阿弥陀如来のご恩、つまり仏恩を尊び喜ぶことです。

食事を通して、単なる味覚ではなく、阿弥陀仏の

「ご恩」

つまり仏恩を味わうことができる機縁となることを願っているのです。

[食事のことば]の意義

「食事のことば」

をつねに自ら声に出すことによって、食事はただ漫然と食物を摂り、栄養を補給するものではなく、目の前の食事には、そこまでに至る大きなおかげとめぐみがあることに気付きます。

そのことによって、ものの本当の価値を見出だす人間性が養われていくことになることでしょう。

以上のように

「食事のことば」

の解説を通してその中身を味あわせていただきました。

私自身、毎日こどもたちと一緒に

「食事のことば」

を唱和しておりますが、まさに慣習的になって、その中身をしっかりと味わっていなかった気がいたします。

今一度その意味をしっかりと確かめながら大切に唱和し、様々なおかげさまによって今生かされているこの身をありがたくいただくことです。

「食事のことば」

を通して、

「自分の力でいきているものは一つもない」

の法語を味わうことです。

「教行信証」の行と信(7月前期)

3.『教行信証』の構造

さて、ここで『教行信証』の構造が問われます。

『教行信証』は六つの巻から成り立っています。

教と行と信と証と真仏土と化身土です。

この中、教巻と、行・信・証・真仏土・化身土の巻とには一つの大きな違いが見られます。

その違いなのですが、行巻から化身土巻まではすべて願名、すなわちその巻の根拠となる願の名前が示されているのです。

例えば行巻は第十七願です。

したがって、第十七願の内容が行巻で明かされていることになります。

信巻は第十八願、証巻は第十一願になっています。

真仏土巻は第十二・第十三願で、化身土巻は第十九・第二十願だと説かれています。

このように、後の五巻はすべて願名が示されています。

ところが、教巻だけは願がありません。

ただし、願名のかわりに教巻には『大無量寿経』という経典が示されています。

これは、何を意味しているのでしょうか。

先に挙げた第十七願から第二十願まで、行・信・証・真仏土・化身土のすべてが『大無量寿経』の中で説かれています。

そうしますと、この経典は、阿弥陀仏の本願の真理を説いているということを教巻は示しているのだとみることができます。

つまり、親鸞聖人は、教巻で『大無量寿経』はどのような真理を説く経典であるかを示され、この経典の言葉を通して、その教えの真実性を明らかにしておられるのだと見ることができます。

そこで教巻を繙いて『大無量寿経』の引用部分に着目すると、不思議なことにそこには阿弥陀仏の教えを説く箇所は全く引用されていないことに気がつきます。

『大無量寿経』で釈尊は、阿弥陀仏とその浄土を語られるのですが、その教えの部分が

「教巻」

では一言も書かれていないのです。

では、『大無量寿経』のどこの箇所が引用されているのかというと、序分の

「五徳瑞現」

というところです。

五徳瑞現とは、釈尊が今までになく輝いたということが語られている部分です。

釈尊は『大無量寿経』を説こうとされる時、仏弟子の方々が今までに見たこともない輝きの姿を示されます。

そこで、弟子の阿難が次のような質問します。

「仏はいつも仏と語っておられますが、今日の釈尊は今までに見たこともない輝きの中にあります。

いったいどのような仏と語り合っておられるのですか。

おそらくその仏は最高であって、その最も尊く優れた教えを聞いておられるので、そのように輝いておられるのではありませんか。

と。

この問いを聞かれて、釈尊は非常に喜ばれて、阿難に

「よき質問だ」

とおほめになり、釈尊の心に廻施されたその阿弥陀仏の教法が、引き続いて語られることになるのです。

その釈尊が輝いておられるという姿を、親鸞聖人はこれこそ今釈尊が最高の法の中にまします証だとされるのです。

最高の仏法である阿弥陀仏の教法が、いま釈尊に廻向されているからこそ、釈尊が輝いておられるのだからです。

ではなぜ、阿弥陀仏は釈尊に阿弥陀仏の法を廻向されたのでしょうか。

それは、決して釈尊を救うためではありません。

釈尊を通して、一切の衆生を救うために、釈尊の心に弥陀の本願を廻向されたのです。

この釈尊の心に一切の衆生を救うという教法が、いま廻向されていることを語っているのが、

「教巻」

の思想になります。

そして、釈尊に廻向された阿弥陀仏の教法が、実際に釈尊の口を通して一声出ます。

具体的には、釈尊が南無阿弥陀仏を称えて、お弟子の方々に

「いま称えている南無阿弥陀仏が弥陀廻向の大行なのだ」

ということを明かにされるのです。

その説法が

「行巻」

の行ということになるのです。

続いてこの行巻と、信巻・証巻とがどう関係し合うかということが説かれていくことになります。

「旅ごころ、絵ごころ」(上旬)国を動かして時代劇を作る運動

======ご講師紹介======

榎木孝明さん(俳優・水彩画家)
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私は今年の年明けから『時代劇再生運動』を始め、時代劇の普及に取り組んでています。

この運動を始めた背景には、現代では時代劇で視聴率を取るのが難しく、スポンサーがつかなくなり、昨年民放から時代劇が無くなってしまったからです。

時代劇にはさまざまな役割を担い、陰で支えている方々がいらっしゃいますが、時代劇がなくなってしまえば、その方々の技術が継承されなくなってしまいます。

結髪さんや衣装さんの技術というのは何十年もかかって継承されるもので、時代劇がなくなればそれらは継承されなくなってしまいます。

私は

「果たしてこれでいいのかな」

と考えたんです。

実は、時代劇の中には、日本人の素晴らしい精神性が数多く散りばめられていて、私の育った昭和30年代のことを思い出します。

その時代は同じ集落の人に叱られていましたし、父親にもぶん殴られていました。

当時は、こっちが悪いことしたから当然だと思っていましたが、今の時代に教育でそれをしたら大問題ですよね。

親が子どもを本気で叱れなくなった、残念な時代だと思います。

あと、私は昔からとってもおばあちゃん子だったので、よく覚えている言葉がいくつかあるんですね。

中でも印象深いのが

「悪こっぼはすんなよ。お天道さんが、ちゃんと見ちょっど」

という言葉です。

当然のごとく、悪いことをしたらお天道さまが見ているというのは言われていました。

ですから、小さい頃からその心がすり込まれているんですよ。

「誰も見ていなくても、絶対に悪いことをしちゃいけない。仏さまが見ている」

それで、自分自身を律していたんです。

それも現代ではあまり言われなくなりましたが、実は時代劇だと、台詞の中でそういうことがいっぱい出せるんです。

だから、昔大切にしていた思いをちゃんと表現して、わかりやすく感動できる時代劇を、今こそもっといっぱい作らなきゃいけない。

時代劇は絶対になくしてはいけないと思い、この運動を始めたんです。

じゃあ何をしたらいいかと言うと、私は国を動かして映画作りをしようと考えました。

お隣の韓国は、映画作りがすごい。

NHKやBSでも韓国の時代劇を放送しています。

これは国策で、国が予算を出して作らせているんです。

これによって韓国のイメージがアップし、結果的に工業製品が売れるところにつながっています。

日本でもそれをやれば、きっと長い目で見ると、いろんなものが活性化するんじゃないでしょうか。

また、私が心配しているのは、日本に時代劇がないせいで韓国の時代劇ばかりを見て、日本の歴史を知らない若者が、韓国のドラマに影響されて文化がごっちゃになってしまうのではないかということです。

そういう意味で、日本も韓国に負けないような発想を持って、映画作りをするなら、国がちゃんと動いてくれないとダメなんです。

そうでもしないと、伝統技術の継承もそうですし、一番大事な日本人が日本人であることの意味がどんどん失われてしまう気がします。

人間関係も希薄になってきていますし、報道されるさまざまな事件を見ていても本当にそう思います。

だからこそ、今この時代に、大事なことを次の世代に伝えていかなければいけないと考え、時代劇再生運動を始めたのです。

『煩悩無尽と雨が降る』

ある日の夕方、三歳児クラスの男の子が、手にイチゴを二つ持って職員室に入ってきました。

聞けば給食室の裏で栽培しているイチゴを給食の先生から内緒でもらったということでした。

そのイチゴについてしばらくやりとりをした後、二人で食べようということになりましたが、彼が水道で洗った後

「はい」

と渡してくれたのは小さな方のイチゴでした。

「園長先生は、○○君より大きいんだから、大きい方がいいな」

と何度も交渉しましたが、頑として聞き入れてはくれません。

「二つあったら、大きい方を自分で取りなさい」

と面と向って子どもに教える親は、そうはいないでしょう。

誰に教えられなくても、人は子どもの時から自分にとって何が得なのか(損なのか)を瞬時に察知するように出来ているのです。

「煩悩」

とはまさに、この自己中心の心が根源になって現れる様々な心のはたらきです。

音楽の才能やスポーツの才能などは、すべての人に備わっている訳ではありませんが、この

「煩悩」

だけはすべての人間に具わっています。

一般に煩悩の数は百八あると言われますが、その煩悩の代表選手が

「三毒の煩悩」

といわれる

「貪欲(とんよく)=貪りの心」

「瞋恚(しんに)=怒りの心」

「愚痴(ぐち)=愚かな心」

ですが、これら煩悩の根源にあるのが、

「自己中心の心」

です。

「貪欲」

は貪りの心といっても、何でも欲しいという訳ではありません。

お金は欲しくても、まさかゴミが欲しいという人はいないでしょう。

つまり

「貪欲」

とは、自分にとって都合の良いものを貪り求める心のことなのです。

「瞋恚」

とは、自分にとって都合の悪いものに対する怒りの心です、

「いい人・悪い人、みな自分の都合」

という言葉がありますが、自分にとって都合の良いものを貪り求め、都合の悪いものに腹を立てる、このように自己中心の見方しか出来ず、真実の見えていない愚かさのことを

「愚痴」

といいます。

親鸞聖人は、

「煩悩は私の心身に満ち満ちていて、怒り、ねたみ、そねみなどの心は臨終のその時まで決して消えることはありません」

と自らを省みておられます。

よく年を取ると丸くなるといいますが、それは体力と気力が衰えただけのことであって、煩悩は決してなくなったりはしないのです。

この世の中の争いごとは、お互いの煩悩と煩悩のぶつかりあいから起こるといっても過言ではありません。

六月は、梅雨の季節。

今月の言葉は、降り続きやむことのない梅雨の音に、尽きることない私たちの煩悩をたとえているのでしょう。

そして、そんな私たちの本質をお見通しくださっているのが、阿弥陀如来さまなのです。

見えているから救わずにはおられない、と言ってくださるのです。

み教えを聞く中で、煩悩具足の身であることに気付かされ、そのことを傷み悲しみと共に受け止めたとき、そうではない方向に生きて行きたいという願いが私たちの中に生まれてくるのではないでしょうか。

「回心(えしん)」(浅田正作)

 自分がかわいい

 ただそれだけのことで

 生きてきた

 それが 

 深い悲しみになったとき

 ちがった世界が

 ひらけて来た

「ちがった世界がひらけて来た」

というのは、煩悩がなくなったということではありません。

煩悩があるまま、煩悩を超える生き方が恵まれてきたということです。