投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

夏休みに福島の中学二年生の男の子が二人、うちに一週間ほどホームステイをしました。

夏休みに福島の中学二年生の男の子が二人、うちに一週間ほどホームステイをしました。

二人は福島市在住で、福島市は比較的内陸部にありますので大地震の被害はありましたが、津波の被害は無く、彼らの学校のクラスメイトやその家族は皆無事であったそうです。

しかし、福島第一原発から60キロ程の距離にあるということで震災後、放射能への不安などもあり、街を離れて転校していく生徒も少なくないそうです。

彼らが鹿児島に来たのはお盆も過ぎた8月の下旬頃でした。

それまでの約一カ月近くの夏休み期間中ほとんど外に出ることはなく、宿題をしたり、ゲームをしたりして家の中で過ごし、たまに外に出るときは長袖を着たり、マスクをしたりして目に見えない放射能を意識しながらの夏休みだったそうです。

そこで鹿児島に来た時にはなるべく外に連れ出してあげようと思い、海水浴をしたり、指宿の砂むしや、そうめん流し、知覧の平和祈念館、坊津の鑑真和上の上陸地(うちのお寺が南薩にありますので南薩が中心となっていますが)、桜島、仙巌園、鹿児島市の花火大会など、一緒にいろいろなところを観光しました。

彼らにとって鹿児島はおろか、九州も初めてということで、それなりに楽しんでくれたようでした。

わたしの思いとすると、もっといろいろな話をしたり、福島のことを聞かせて欲しいという気持ちはあったのですが、なれない土地で不安も多いでしょうし、何より出来るだけ鹿児島でゆっくり過ごして欲しいと思っていましたので、あまり震災やその後の話は出来ませんでした。

そんな彼らが福島に帰ってからしばらくして、手紙が届きました。

一人の子の手紙には、うちの4さいと10カ月になる二人の子どもも含めた私たち家族一人一人に対して、お礼の言葉と鹿児島での楽しかった思い出を丁寧に書いた手紙をいただきました。

もう一人の子の手紙には、

『一週間もの間、お世話になりありがとうございました。

鹿児島での楽しい日々を思い出す度

「また行きたいな」

と思ってしまいます。

福島はあいかわらず毎日原発のニュースばかりで気がめいってしまいます。

2学期が始まろうとしているのに、子どもの姿はあまり見ません。

鹿児島でのあののびのびした時間がうそのようです。

一日も早く元の福島にもどってくれることを願うばかりです。

これだけ放射能が騒がれている中、僕達福島の子どもをこころよくむかえてくださった事、本当に感謝しています。

僕も将来こまっている人がいたらスッと手をさしのべる事ができる大人になりたいです。』

といった内容の丁寧な手紙をいただきました。

わたしが接した中で感じた二人は、あまり自己主張をしない、おとなしい印象を受けたのですが、二人ともとても繊細で、鋭いものの見方で世の中や大人達をしっかりと見ているんだなあ、と手紙を読ませていただいて感じることでした。

このような子どもたちの豊かな感性や感情にふれることで、我々大人が子どもたちから教えられ、またそこから学ばなければならない事の大切さを、福島の子どもたちに教えてもらうことでした。

今回、福島の子どもたちを受け入れるにあたり、多くのみなさまのお力をいただきました。

ありがとうございました。

今後もこの交流は続きますので、多くの方々と関わり、ご協力をいただく中で、ともにわたしたちに出来る事を考えていきたいと思っております。

『世の中安穏なれ仏法ひろまれ』

早いもので、今年も12月になりました。

年を重ねると、月日が過ぎるのが早く感じると言われますが、私自身がそのことを身をもって感じているこの頃。

今年を振り返ってみますと、東日本大震災や豪雨被害などの自然災害、原発問題などを通して色々と考えさせられる年でした。

また、京都・本願寺では親鸞聖人750回大遠忌法要をお迎えされる年でもありました。

法要のスローガンの

「世の中安穏なれ」

は『親鸞聖人御消息』の第25通の中の

「世の中安穏なれ仏法弘まれ」

に述べられています。

親鸞聖人が示された

「世の中安穏なれ仏法弘まれ」

という言葉は、人々が不安と争いの時代にあって、聖人が念仏者のめざす道を示されるなかで述べられた言葉です。

「安穏」は、

「安らかで穏やかなもの」

「平和」

といった意味で受け止められると思います。

1人1人が平和に暮らす社会を願った言葉であると受け止めています。

ある新聞の記事に、東京で開かれた対話集会の中で、コスタリカ元国連大使のカレン・オルセンさんという方が、“平和の対義語は?”と問われた際に“平和とはいかに生きるかということ。

平和に対する言葉は戦争だけでなく飢餓、貧困、無知、暴力、残虐などたくさんある”と述べられたそうです。

私たちが暮らしている現代社会を考えてみますと、科学の進歩で様々なものがあふれ、便利な時代になっています。

今の時代の生活が当たり前になっている私自身、昔の時代は正直なところ分からないことが多いですが、ものが豊かになり便利になれば良いとは言い難いように感じます。

便利さや豊かさを求める中で、忘れてしまったことや気付けなかったことが沢山あり、カレン・オルセンさんの述べられた

「戦争、飢餓、貧困、無知、暴力、残虐」

といった苦しみが、悩みも今なお多く存在している現代社会。

その現代社会に生きる私たちは、

「いかに生きるべきか?」

を自らに問うていくことが必要だと感じます。

仏法は、私に自らのあるがままの姿を見つめさせてくれます。

親鸞聖人の

「世の中安穏なれ仏法弘まれ」

の言葉は、私に自らが生きる道、真の安穏を求めていくように示して下さっていると重く受け止めることです。

「親鸞聖人の往生浄土思想」(12月前期)

親鸞聖人は、

「往生・浄土」

について、どのように理解しておられたのでしょうか。

このことを知るためには、次の四点について窺うことを通して、その思想を明らかにすることができるように思われます。

一、どのような行によって浄土に往生するか。

二、その往生はいつ決定するか。

三、生まれるべき浄土とはどのような場か。

四、往生した衆生はそこでどのような仏道を成すか。

これらの問題が、親鸞聖人の主著

『顕浄土真実教行証文類(以下「教行信証」)』

で論考されています。

この書は

「教・行・信・証・真仏土・化身土」

の六巻から成り立っています。

この中、第一の問題は、

「教・行・信」

の各巻で、第二と第四は

「信・証」

の巻で、第三は

「真仏土と化身土」

の巻で、その内実が明かされています。

ところで、親鸞聖人の思想の大きな特徴は、行道に関して、往生行の成就に時間的な流れを持たない点にあります。

周知のように、仏教は

「教・行・証」

の三つの綱格をもっています。

釈尊の教えを信じ、行じて、証果に至るのです。

ここで、衆生にとって最も重要なことは、

「信じ行じる」

行道にあることはいうまでもありません。

仏道とは、釈尊の教えをそのごとく一心に信じ、懸命に行道に励み、その行を相続して、最終的に自らの心を清浄にし、証果を得る教えだからです。

したがって、一心の行の相続がなければ証果は得られません。

ゆえに、行道という時間も流れを持たない仏教は、本来的にはありえません。

にもかかわらず、親鸞聖人の往生思想は、行道に時間の流れをなぜ持たないのでしょうか。

親鸞聖人の思想は、法然聖人との出遇いを除いては考えられません。

さらにいえば、その一切が法然聖人から受けた教えによっているといえます。

そこで重要なのは、親鸞聖人が法然聖人に出遇われる以前に、どのような仏道を行じておられたかにあります。

「音楽を通して今生きていることの喜びを」(上旬)いのちをたどればゴキブリと親戚

======ご講師紹介======

中村章さん(本願寺派布教使・教誡使)

☆演題 「音楽を通して、今生きていることの喜びを」

昭和33年、長崎県に生まれる。

昭和57年に僧侶となり、平成5年に本願寺派布教使になる。

民生委員、児童委員、保護司、篤志面接委員、教誡使として社会問題にも積極的に取り組む。

平成19年に当時高校2年生の息子と親子で音楽ユニット

「南無」を結成。

いのちの尊さ、今生きていることの喜びを身近に感じて欲しいとの思いで、ギターの弾き語りを取り入れた布教活動を行う。

寺院だけでなく、老人施設や保育園、学校、地域の公民館など、さまざまな場所で依頼を受けています。

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「ああ弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)、多生にも値(もうあ)いがたく、真実の浄信、億劫(おくこう)にも獲がたし。

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」

と。

さて、みなさんは今の世の中をどう思われますか。

現代は科学が発達は、便利な世の中になりました。

宇宙にも飛び出すし、物も捨てるほどにあふれています。

私の両親は大正生まれですが

「戦前戦中後の物がなかった時代は、食べ物があるだけで幸せだった。

そういう思い出懸命に生きていきたんだ」

という話をします。

では、今の日本に生きている人はみんな幸せを感じているかと言えば、首をかしげてしまう人が多いのが現実です。

すごく裕福な人がいてもそれはごく一部です。

苦しい暮らしをしている人もたくさんいて、みんなが幸せだとは思えていない。

その寂しい現実は決して他人事ではないんですね。

また、科学が発達した現代では

「宗教は必要ない」

「私は無宗教だ」

と言う人が大勢います。

しかし、その一方で先端科学の病院でさえ

「4」を

「死」と読み、

「9」を

「苦」

と読んで不吉だとして避けるところがあります。

他にも吉凶を気にするなど、科学が無宗教だと言いながら、いろんな迷信、俗信に振り回されてビクビクした生活を送ってはいないでしょうか。

常識というものにしてもそうです。

常識は、時代と社会によって変わっていくものであって、普遍的、永遠なものではありません。

もちろん、非常識になれということじゃありません。

しかし、そんな不安定なものを全てのよりどころにして、常識さえ守っていれば間違いないというのは、危ういということです。

そんなものに振り回されて右往左往する私に対して、いつでもどこでも喚んでくださっているのが仏さまです。

そのお慈悲に気付かされ、真実に向かって生きていく上で、私の生きる力になって下さるのが宗教であり、お念仏です。

それを2500年前のお釈迦さまは縁起という教えでお示しくださいました。

お釈迦さまの縁起の教えは、宇宙に存在する全てのものが繋がり合って生きているとお示しになっています。

人間界に限れば、いのちの歴史は数十年しかないのかもしれません。

しかし、宇宙の誕生から全てが始まり、今ここにいる私のいのちにつながっているんですよね。

地球上に限っても、最初の生物からいろんな生物に進化を遂げてきたのですから、この地球上にある全てのいのちが繋がり合っているのは間違いありません。

元のいのちをたどれば、ゴキブリとも親戚なんです。

しかし、ゴキブリを見ると親の仇のように追いかけ回して殺してしまう私がいる。

私は、そんな人間でしかないんです。

でも、どんなにいのちもつながりあっているということを教えられた人生と、人間さまが一番偉いんだというような思い上がった人生では、大きく意味が違ってくるんじゃないかと思います。

私は1人で生きている訳ではないし、生きている訳がありません。

人間だけで生きている訳でもないし、生きている訳がありません。

そういうつながりの中で生かさせていただくいのちに対して、人間中心、自己中心的な物事の考え方でいるから、現代の社会でいろんな問題が起きているのではないでしょうか。

最近、微笑んでいますか?

ついつい眉間にしわを寄せていないでしょうか?

仏教に

「七つの布施(無財の七施)」

という教えがあります。

布施といえば普通、金銭的なもの、物品的なものを想像されませんか?

布施をしたくてもそうして財がなければできないものです。

ここでいわれる七つの布施は無財。

財がなくてもできる七つの布施ということです。

ちなみに布施とはその行為が純粋で見返りを求めないものとされています。

でも私たちの普段の有様は、何か見返りを求めてばかりではないでしょうか?

「してあげたのに、してやったのに」等など…

七つの無財の布施の中にやわらぐ、かお、よろこぶ、いろ、ほどこしと書いて

「和顔悦色施(わげんえつしきせ)」

という行いがあります。

仏説無量寿経には

「和顔愛語(わげんあいご)」

という言葉があります。人と会うときは穏やかな笑顔と思いやりのある話し方で接しなさいと教えてくれます。

人とお付き合いする時に相手の顔色ばかり気になってしまい、人とのお付き合いが段々と窮屈なものになってしまうことがありませんか?

花を見て心が安らがない人はあまり居ないでしょう。

まず、自分が相手にとって花のような人になれるように心がけてみてはどうでしょうか?

お互いに花を見ている時のように和らいだ気持ちになれますよ。

昔から病を気からと言いますが、軽い病気なら治ってしまうほど大切なこころがけなのです。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(11月後期)

親鸞聖人にとっての真実は、南無阿弥陀仏がすべてであって、この一声の称名が阿弥陀如来の清浄願心によって回向成就された行であり信であり証であり真仏土だったのです。

けれども、この真理が親鸞聖人に信知せしめられた瞬間、その時同時にこのような獲心を親鸞聖人に生起せしめた阿弥陀仏の方便の一切が、親鸞聖人にとってまさに阿弥陀仏の大悲心そのものだと領解されたのです。

だからこそ、阿弥陀仏方便変化の所作として、浄土三部経に説かれる浄土が説示の通り真の仏身仏土として親鸞聖人に受け入れられたのです。

私たち愚かな凡夫にとって浄土とはいったい何でしょうか。

科学的な知識教育を受けた今日の私たちにとっては、素直に存在論的な浄土を信じることができません。

西方十万億の浄土、十劫の昔の阿弥陀仏の成道をいかに信じようとしても、そのような浄土や仏の存在を信じることは現代人には不可能となっています。

だからといって、無為・法性・実相・真如を浄土だということもできません。

人間の知性と関わりえない虚無の世界をいかに浄土だといっても、そのような浄土は凡夫にとっては無意味でしかないからです。

では、なぜこのような私たち凡夫の社会に、いま浄土の教えが必要なのでしょうか。

今日の私たち凡夫は現実の世を虚無として真に生き抜く力はなく、その一方死後に生まれる西方の極楽も信じることは出来ません。

だからこそ、凡夫がこの世を真に生きる無限の力強さと、限りない暖かさがいま必要とされているのだといえます。

親鸞聖人の浄土の思想は、そのための永遠の

「生」

を私たちに教えておられます。

「南無阿弥陀仏」

に一切の真実を見た上で、その念仏が暖かい言葉となって真実の道を語りかけているのです。

私たちの感覚において、西方は太陽が沈み一切が流れ行く寂滅の世界です。

そこには、一つの例外も許されません。

自分もまたそこに流れ往くのです。

そうしますと、永遠の念仏の輝きの中で、従容としてこの流れ往く自分を見ることができます。

この念仏の輝きを具体的に表現すれば、結局浄土の経典や『浄土論』に見られる浄土の荘厳になってしまいます。

その結果、一声の南無阿弥陀仏こそが無限の浄土の輝きになるといえます。

この念仏の真理に生かされる者は、すでにはからいが完全に破られています。

また、このような者の集いでは、現代であってもお互い念仏を称えつつ

「浄土でお待ちしています」

と言ったとしても、そこに何ら違和感は感じられません。

それは何よりも、念仏をとおしてその浄土が

「極楽無為涅槃界」

であると信知されているからです。