投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「音楽を通して今生きていることの喜びを」(下旬)自分を認めてくれる人の有無で生き方が決まる

今年の8月27日から28日の2日間、長崎県の佐世保市において

「不登校・登校拒否の全国のつどい」

というのがありました。

不登校・登校拒否や引きこもりを社会問題として考えていく全国大会です。

私は、ご縁あって、初めてこの大会に関わらせていただきました。

社会に溶けこめずに苦しんでいる人には、学校に行きたいのに行けなくて苦しんでいる子がいっぱいます。

そんな状態にある自分をつまらない人間だと自分で責め、遂には自死にまで発展してしまう。

そんな大変なことまで含んでいる問題なんです。

大会当日は600人近くの方が全国から集まられました。

社会復帰された当事者の方々や保護者の方、地域の学校の先生など、いろんな人がいる中で、私はある女性の参加者の方に学ばせて頂きました。

その方は、10年間引きこもっていて、ほんの少し前に出てこられたと言います。

それは何がきっかけだったのかと聞くと、一緒に来ていたお母さんが涙を流して語られました。

大会の2カ月前、6月に実行委員会を開いたときのことです。

たまたまたそのときに参加してくれた佐世保の県立大学の元先生が、引きこもりの子どもたちを受け入れる居場所を作るNPOを立ち上げておられました。

その先生がお母さんを通じて

「うちに来ないか」

と連絡をしたんです。

先生は、直接彼女と話そうと、何回も電話をしました。

そのことが娘さんに響いたんでしょうね。

先生から電話があって、娘さんは

「私のことを気にかけてくれている人がいるんだな」

と言ったそうです。

自分を認めてくれる人がいることに気付いたんですね。

もちろん、それまで周りの人がどれだけ彼女を気にかけて心配してきたかは想像に難くありませんが、そのときその先生の言葉が響いたんでしょうね。

それがきっかけで、10年間引きこもっていた彼女が一歩外に出ることができたということです。

居場所がない人はどこに居場所を求めるのでしょうか。

ある人は犯罪の世界に足を向ける人もいます。

一方で、言えにこもってしまう人もいます。

子どもであろうが、大人であろうが、どんな人にも言えることは、やはり自分の居場所、認めてくれる人があるかないかで生き方か違うということではないでしょうか。

私たちは、生活の中で常に判断をして生きています。

その判断し、本来自分がしなきゃいけないということです。

それなのに、私たちは、みんながやるから自分もやるという感じですよね。

あるいは、判断に迷ったときに占いやまじないごとに走ってしまう。

それで一時的に解決しても、すぐにまた迷ってしまいます。

そういうものをよりどころにしていると、迷っていることにも気がつかないほど、深みにはまっていってしまうんですね。

だから、そのときに迷わないために、まず迷っている私がいるということを知らせていただき、そして、その私を真実に導いていただく。

そのために、本物の宗教が必要なんです。

宗教は、私の生き方を映す鏡なんですよ。

先日、連休がとれたので一人旅へGo!!!

先日、連休がとれたので一人旅へGo!!!

マイカーでフラッと2泊3日の旅に出ました。

サービスエリアでちょこちょこ休憩をとりながら、福岡へ♪

一人の旅行ってけっこう好きです。

自分のペースで行動できるし、起きたいときに起きて、寝たいときに眠れるという、そ〜んな小さいことでも、気分転換リフレッシュにつながるように感じます。

!屋台にもフラっと行ってきました!(^^)!

博多の屋台って。

ラーメンだけかと思っていた私。

ところが、おでんとか普通の居酒屋系もたくさんありました。

私は牛タンっと書かれた屋台へ!

牛タンはせっかくでしたが今回はいただかず(>_<) 周りの雰囲気を楽しみながら、寒〜い中、焼酎のお湯割りを1杯飲みながら、福岡県民になったつもりでホッコリとしたひと時を過ごすことが出来ました。 翌日は朝から、とんこつラーメンを食べました。 カウンターで一人、一人食べる場所が区切られているので、女性でもゆっくり周りを気にすることなく、お腹いっぱい完食!!!してきました(^^♪ その後はコーヒー片手にプラプラ・・・・・きょろきょろ・・・・ 街の散策を楽しみました。 !!福岡にいる友達とも会い、水炊きも食べてきました♪ 博多水炊きって有名らしいですね!! 凄くおいしくって、私の鍋ランキング1位となりました(笑)) そんなこんなで、独りゆっくり2泊3日の旅、幕を閉じたわけですが、 とにかくゆ〜くり、ゆ〜っくり身体を休めることが出来ました。 お休みの日、おうちでゆっくりするのもいいですが、おうちにいると、何かと用事が出てきたりするので、思い切っておうちを離れて、休息時間を作るというのが、私の気分転換リフレッシュの方法になっているように思います。 今年もあと少し。 しっかり休んだ分、しっかり働かなきゃ♪ よし、明日からも頑張るぞ〜!!! お〜!!!

『世の中安穏なれ仏法ひろまれ』

親鸞聖人は、お手紙の中で

「世の中安穏なれ仏法ひろまれ」

と述べておられます。

親鸞聖人がおっしゃる

「安穏なる世の中」

とは、いったいどのような世の中なのでしょうか。

おそらく、誰もがこの言葉から思い浮かべるのは、この地球上から戦火が途絶え、人種、民族、宗教、男女などの様々な違いを超えて、全ての人々が等しく仲良く暮らせるような争いのない穏やかな世の中になることであるように思われます。

そうすると、私たちの住むこの日本は、1945年に第二次世界対戦が終結して以来70年近くの間、少なくとも外国と正面だって交戦することはなく、人々は経済を発展・成長させることにより生活を豊かにし、

「平和」

な日々を謳歌してきました。

また、社会福祉や医療の充実、男女共同参画社会への取り組み、差別解消に向けての運動などにより、誰もが等しく仲良く暮らせるような、争いのない穏やかな世の中を実現させようと努力しているようにも窺えます。

そのような意味では、日々刻々と

「安穏なる世の中」

が築かれつつあるとも言えます。

ところが、果たして私達は現実の社会において、そのことを実感することが出来ているでしょうか。

実感できないばかりか、むしろこれまでには考えられなかったような凶悪な事件が次々と起こり、親が自分の子どもを虐待したり、殺したりするような痛ましい事件さえ頻発しているのが現状です。

では、私達はいったいどのようなことに努めれば

「安穏なる世界」

が訪れるのでしょうか。

仏教が説く

「因果の道理」

とは、因が真実であれば果もまた真実であり、因が不実であれば果もまた不実であるという教えです。

そうすると、仏教の因果の道理から見れば、私たちのこの社会における行為は、全て不実ということになります。

なぜなら、私達は死ぬ瞬間まで自らの力によっては迷いを断ち切れず、何一つ真実なることを成し得ない

「凡夫」

だからです。

そのため、私たち人間生活のすべては不実の中にあると言えます。

そして、行為の一切が不実なのですから、私たちの生活に見られる果は、すべて不実ということになります。

私たちが日頃考えている因果の道理は

「努力すれば幸福になる」

ということですが、その求めている幸福そのものも、迷いの幸福だと言えます。

もちろん、不幸も迷いの不幸です。

そのため、どのように懸命に努力しても、それは迷いの努力を重ねているだけに過ぎないことになります。

そうすると、私たちがどれほど

「安穏なる世の中」

を築こうとしても、それは迷いの中で幻想を追い求めているだけに過ぎないということになります。

だからこそ、親鸞聖人はこの言葉の後に

「仏法広まれ」

という言葉を続けておられるのだと言えます。

この場合、親鸞聖人がおっしゃる仏法とは

「念仏の教え」

ということになります。

それは、この世の中における真実は

「念仏を称える(因)」

「必ず仏になる(果)」

という因果の道理をはっきりと頷いておられたということです。

このような意味で、親鸞聖人が言われる

「安穏なる世の中」

とは、決して何の問題もなく、また私を苦しめる何ものも存在しない、あるいは私がのんびりと暮らせるといった、単に穏やかな世界を意味しているのではないように窺えます。

私たちは、たとえ状況としては、どれほど辛くても苦しくても、私が私をあるがままに受け止められると同時に、私も周りの人をそのままに受け止めることが出来る。

その二つが実現すれば、この世の中を安心して生きていくことが出来るのではないでしょうか。

例えば、嬉しいことがあってもそれを伝え聞いてくれる誰かがいなければ、少しも嬉しくはありませんし、反対にどれほど悲しくても寂しくても話に耳を傾けてくれたり、頷いてくれる仲間がいれば、また何度でも立ち上がって行くことが出来るものです。

そうすると、安穏なる世の中は、どこか遠いところにあるのではなく、共に生きる仲間を見出すところに実現していくのではないでしょうか。

おそらく、その仲間がやがて集う世界を親鸞聖人は

「浄土」

に見出しておられたのだと思われます。

「親鸞聖人の往生浄土思想」(12月中期)

親鸞聖人は、比叡山で源信流の天台浄土教を行じておられました。

それは、一心に浄土の教えを信じ、ただひたすら懸命に念仏を称えて心を清浄にし、真実の心で往生を願う行道で、その念仏行を一心に行じておられたのです。

では、その結果はどうであったのでしょうか。

行道は願いの通りには成就せず、むしろその願いとは逆に行が完全に破綻し、苦悩のどん底に陥り、その最も悲惨な状態の中で、親鸞聖人は法然聖人と出遇われたのです。

このとき、法然聖人は親鸞聖人に

「選択本願念仏」

という一つの真実を繰り返し語られました。

法然聖人のこのときの語りかけの言葉を親鸞聖人は『歎異抄』第二条で、

ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし

と語っておられますが、法然聖人は親鸞聖人に対して、

「真実心の成就」

を全く求められず、念仏が本願に順じた行であるから、念仏する衆生を弥陀は必ず摂取したまうのだと、弥陀法の真理を淡々と教えられたのです。

だからこそ、この教えを聞かれて、親鸞聖人の心に

「よき人の仰せを信じる」

という信が成立したのです。

では、この獲信によって、親鸞聖人に何が明らかになったのでしょうか。

阿弥陀仏が衆生に念仏を称えさせて、その衆生を摂取したまうという法の真理が、いま法然聖人の説法という行為によって、親鸞聖人の心に開かれたのです。

念仏者はすでに弥陀の摂取の中にあり、心は弥陀の大悲で満ち満ちています。

故に、この真理を獲信するとき、往生は決定し正定聚に住すという証果が得られるのです。

この法の道理によって親鸞聖人は

「浄土往生の行」

を、阿弥陀仏の大悲から出る名号と、法然聖人のその念仏を説法する

「行為」

の中に見られ、また浄土を光明無量・寿命無量であるとされ、功徳の相が

「南無阿弥陀仏」

となって、浄土から親鸞聖人の心に来っていると捉えられたのです。

このような観点から、以下、親鸞聖人の往生浄土の問題を尋ねることにして参ります。

「音楽を通して今生きていることの喜びを」(中旬)ちょうどいい生きる道「中道」

この日本にも餓死する人はいます。

さらに目を広げていきますと、70億人いる世界人口のうち、9億人から10億人の人が慢性的な飢餓状態にあると言われます。

1日に17000人の人が餓死しているというデータもあります。

なんと5秒に1人です。

一部では、大金持ちの人がいる一方で、食べるのにも事欠く人がこんなにいる。

このような世界を私は餓鬼道のようだとつくづく思うことであります。

餓鬼道とは、仏教で迷いの世界の一つに数えられる、欲望の極まりない世界のことですが、その餓鬼の一種に、二の腕の長い餓鬼がいるといいます。

その餓鬼は、食べ物やら何やら自分が欲しい物をいっぱい集めてきますが、二の腕が長すぎて自分の口に食べ物を運ぶことができず、飢えに苦しむといいます。

そこでお釈迦さまは教えを説かれました。

「自分で食べることを考えるのではなく、相手に食べさせてごらん」

と。

どんなに二の腕が長くても、相手の口にはその食べ物を運んであげることはできます。

そうすると、相手も自分の方に食べ物を運んでくれるでしょう。

「自分が」

とばかりしていますと、自分自身を食べられない状態に追いやり、苦しみは増すばかりになってしまいます。

また、仏教では極端な苦行を強いることはありません。

だからといって、快楽に溺れる生活を認めている訳でもありません。

ちょうどいい生きる道

「中道」

が説かれているのです。

中途半端という意味じゃありません。

この中道の教えは、よく弦楽器に譬えられます。

ギターも三味線も、ピアノもそうです。

弦楽器というのは、弦を強く張りすぎたらダメなんです。

張りすぎるときしんだ音になってしまうんです。

逆に緩くてもいい音にはなりません。

演奏する人がよく楽器をいじっていますが、あれはバランスのいい調和のとれた音を出すために、ギターなどの糸巻をいじって、弦の張りを調整して、音を合わせているんです。

張りすぎても緩すぎてもいけない。

中道という教えは、そんな楽器に譬えられています。

欲をなくせと言われても、なくすることはできません。

しかし、ちょうどいいバランスを保つことで、弦楽器の音色のように周りの人の心を穏やかにすることはできます。

そして、その柔らかな生き方が、また次の人の生き方につながっていくことになるのだと思います。

『自信教人信』

「自信教人信」

というのは、中国の初唐時代の高僧、善導大師の言葉です。

善導大師は、私たちにとって最も重要なことは、阿弥陀仏のみ教えをまず自ら一心に信じ、そしてその教えの尊さを未だ信じていない人々に伝えて、信ぜしめることだと言われているのです。

私たちはいま、たまたま人間としてこの世に生まれてきています。

それは、まことに偶然としか言いようがなく、この私にとってこれほど希なことは他にはありません。

しかもその中にあって、私たちは仏法を聞くという機会に恵まれています。

さらに幸いなことに、この私はその仏法を聞き信じ喜ぶという智慧を頂いているのです。

これこそまさに難の中の難というべき奇跡的に希有なことなのです。

なぜなら、阿弥陀仏の法門は、仏法の中で最も信じ難い、難信の法だからです。

その法を信じ喜ぶ因縁がいまこの私自身に起こっているのです。

私は阿弥陀仏のみ教えを聞いて、信じ喜ぶという身に育てられています。

とすれば、仏者として私がなすべき道はただ一つだと言えます。

それは阿弥陀仏の法門が、私の悩める心を喜びに転じたのですから、私自身もまたその念仏の功徳を讃嘆して、他の人々にその教えを伝える。

それが私の道になるからです。

周囲には、阿弥陀仏の教えを聞く縁に恵まれていないために、深い悩みに陥っている多くの人々がいます。

その人々に阿弥陀仏の教えを伝えて、その心を私と同じ喜びに転ぜしめる。

それが念仏者として当然の、最も大切な道なのです。

けれども、実はこの仏道の実践こそ難中の難であって、これ以上の難はないと言わねばなりません。

なぜなら、阿弥陀仏の大悲の法はその不可思議さの故に、釈尊の説法でもなかなか信じることができない人が多いのに、この難信の法を凡夫である私が説法して、人々に信ぜしめようとしているからです。

そこで、善導大師はこの念仏の実践を称えて、

「自ら信じ、人を教えて信ぜしめ」

阿弥陀仏の大悲の法を伝えて、一切の凡夫を教化する仏道こそ、真に仏恩を報ずる道だと述べられるのです。

ところが親鸞聖人は、善導大師の

「自信教人信」

の教えを受けながら、この言葉を大師とは少し違った意味に解釈されます。

「南無阿弥陀仏」

をただ称えるのみで、いかなる凡夫も直ちに浄土に生まれるという教えはあまりにも不可思議であって、たとえ釈尊の説法でも信じ難いのであれば、

「自信教人信」

の仏道は凡夫には不可能ということになるからです。

そこで親鸞聖人は、凡夫が阿弥陀仏の大悲の法を伝えるのではなく、大悲の法はそれ自体の功徳によって弘く伝わるのである。

したがって、凡夫はその大悲の法をただ聴聞して、信心歓喜すればよい。

ただ信心歓喜することこそが、まさしく真に阿弥陀仏の恩に報いることになるのだと解されます。

まさに、一人ひとりの弥陀法の歓喜によって、この法門は無限に弘まることになるのです。