投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

年末といえば

年末といえば

「大掃除」

をイメージされる方もたくさんいらっしゃるのではないでしょうか?

一年のよごれを払い、綺麗な環境で新しい年をむかえていこうと考えたりしますよね!

でも、大掃除、一日や二日で終わるものではないですよね。

正直なところ、一週間くらいかけて、綿密に計画を立ててしていかないと、なかなかすべての場所に手をつけていくことは難しい気がします。

というわけで、昨年は年末に限定せずに掃除を少しずつはじめていくことにしました。

まずは、ほこりをはらいながら、掃除機をつかってほこりを吸い取ったり、また目に見えてよごれている場所は、拭き掃除を徹底したり、と自分なりに順調かつかなり綺麗に掃除ができているような気がしていました。

普段の家具のレイアウトの中での掃除はだいぶ片付いたので、いい機会だから模様替えをしようと思い、家具などを動かしてみることにしました。

すると…、出てくる、出てくる、普段みえない場所にあるほこりやゴミ、またなくしたとおもっていたボールペンや電池など、いろいろな物がでてきました。

すっかり掃除を終えた気分でしたが、でてきたほこりを見て

「まだ掃除は半分も終わっていなかったんだ」

ということに気付かされ、やる気が減退してしまいましたが、奮起して、なんとか自分の部屋だけは掃除を終えることのできた私でした(笑)

私たちは、普段みる場所や物ばかりに目をむけがちですが、実際はそういった場所とは違ったところのほうが、目につかない分よごれている上に、掃除もしていないなぁ、と感じました。

これはで、表面だけ掃除をしても、

「本当にきれいになった」

とは言い難いですよね。

目につく場所ばかりでなく、みえない場所だからこそ、目をむけていかなくてはならないと感じました。

例えば、

「心の掃除」

あなたはしていますか?

よくよく考えると、愚痴や不満、迷いといったほこりが大量につもっているような気がします。

よきご縁をいただいたと思い、いろんなことを振り返りながら、反省といった心の掃除もしながら、新しい一年を迎えていけたらと思うことでした。

ほこりがつもるまえに、少しずつしっかり心も身の回りもお掃除していきたいものですね♪

『慈光(みひかり)に照らされて新しい一歩を始めよう』

ここ数年、1年があっと言う間に過ぎ去っているように感じています。

小学生・中学生・高校生の頃は1年がとても長〜く感じられていました。

しかし、最近は特に時の流れの早さを痛感しています。

このまま10年20年30年と年を重ねた時には、まさに1年が

「あっ」

と言う間に過ぎ去っていくように感じられるのでしょうか。

だからこそ、今この瞬間を1日1日を大切にしなければならないと思います。

昨年は、伯父・伯母の法事が勤まり、東京・大阪・宮崎などから多くの親戚が集まりました。

普段、お互いに忙しく生活している中では、親戚一同が集まるという機会はめったにありません。

この度の法事は、伯父・伯母が私たちに対して、いのちの尊さ・有難さ、そして阿弥陀さまに見護られながら生活をさせてもらっていることに、改めて思いをいたしてほしいといのちがけで設けて下さったご縁だと思うのです。

ご法事のあと、伯父伯母を偲びながらお斎をいただき、思い出話に花が咲きました。

その中である人が、

「おじさんもおばさんもみんなお浄土にかえっていかれたなあ・・・。」

としみじみと語っておられました。

しかしその中で、

「今度はひょっとしたら自分の番かもしれないなあ…」

と言った人は、1人もいませんでした。

この方の言葉を聞きながら、私自身も同じように、自分の内側ではなく外側にしか目が向いていない自身の姿に気づかされました。

周りで人が次々に亡くなっていっても

「自分だけはいつまでも生きている」

と、心のどこかで思いこんでいる私自身の姿にハッとしたことです。

阿弥陀さまの智慧の光に照らされることによって初めて、私たちはお粗末な自分の迷いの姿が明らかになります。

そして、そのお粗末な私であることに気がつくことを通して、阿弥陀さまのお慈悲のど真ん中に包まれて生かされていたことに頷くことができます。

そのとき、私たちは苦しみ悩みの多いこの人生を安心して生き、安心していのち終わってゆくことのできる、確かな新しい一歩を踏み出せるようになるのではないでしょうか。

「親鸞聖人の往生浄土思想」(1月前期)

このように見れば、法然聖人によって明らかにされた

「選択本願念仏」

という、阿弥陀仏の本願の教えが

「浄土真宗」

であって、親鸞聖人はまさに法然聖人の念仏往生の道に行かされ、生涯、この教えにしたがって、ただ念仏のみの道を歩み続けられたといえます。

法然聖人は生涯、称名念仏による往生の道を説き続けられたのであり、親鸞聖人もまた、生涯かけて称名念仏による往生浄土の道を歩み続けられたのです。

そのため、行道における両者の念仏道は完全に一致するのであって、そこには何等思想のズレは見られません。

ところが、いま法然聖人の主著

『選択本願念仏集』

と親鸞聖人の主著

『教行信証』

を重ねて見ますと、今度は逆に、そこにほとんどといって良いほど、思想の一致は見られません。

『教行信証』

には、経・論・釈、多くの書物から文章が引用されていますが、

『選択集』

からは

「行巻」

に一カ所引用されているだけであり、根本的といってよいほどの違いが生じています。

これをどう見ればよいのでしょうか。

この両者の思想の相違は、一般的には法然聖人は念仏往生であり、親鸞聖人は信心往生であることによるものとされています。

もちろん、真宗の側からすれば、従来からも両者の思想の違いが強調されているのではなく、

『正信偈』

に、法然聖人の根本思想が、

生死輪転の家に還来することは決するに疑情をもって所止とす

速やかに寂静無為の楽に入ることは必ず信心をもって能入すといえり

と述べられていることからに、親鸞聖人は法然聖人の教え

「信心正因」

だと理解しておられたと受け止めています。

したがって、

・法然聖人の念仏往生の義には、当然その念仏には

「信心」

が含まれている。

・法然聖人は聖道門の諸行に対して、浄土門の行はただ念仏一行だと、仏道における

「行」

念仏の特徴として念仏往生義を主張された。

・それに対して親鸞聖人は、浄土門内にあって、その念仏往生の中心こそ信心であると、法然聖人の念仏往生義の特徴を

「信」

と捉えた。

これが、親鸞聖人の信心往生義ですから、両者の思想には、何ら相違はないと理解されています。

けれども、これは真宗者にとって都合のよい見解であり、両者の思想そのものからは、このような見方をすることは出来ません。

なぜなら、法然聖人の念仏往生の義において、信心が重視されているといっても、その信心と念仏の関係は、信じて念仏するという仏道です。

それに対して、親鸞聖人の信心往生に見られる念仏と信心の関係は、大行としての念仏を信じるという仏道ですから、往因としての信心と念仏は、二者の間で、その順序は逆転しており、それが同一思想だという主張は成り立たちません。

「心と身体の健康のために」(上旬)育児に一番大切なのは「愛情」

======ご講師紹介======

蓑毛良助さん(鹿児島国際大学大学院教授)

☆演題 「心と身体の健康のために」

ご講師は、鹿児島国際大学大学院教授・蓑毛良助さんです。

昭和24年生まれ。

昭和51年に東京教育大学(現筑波大学)大学院を卒業。

同年4月から講師として愛媛大学に勤務。

昭和58年から鹿児島県内の大学に勤務。

平成8年に、鹿児島国際大学福祉社会学部教授。

次いで平成13年に同大学大学院福祉社会研究科の教授に就任。

さまざまな役職を歴任しつつ現在に至る。

教育心理学、臨床心理学、障害児心理学を専門とし、スクールカウンセラーやDV相談員など、教育と心の問題に取り組んでおられます。

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人間の発達は

「オギャー」

とお母さんのお腹から出て始まると思われがちですが、最近の研究ではそうではないことが分かってきました。

胎児はお腹の中で1日約400?の羊水を飲み、それを肺に入れて呼吸の練習をしたり、食道から胃や腸、腎臓を通して濾過し、きれいに羊水を出して排泄の練習もしています。

また胎内で歩行の練習をするなど、胎児はお母さんのお腹の中で発達を初めているんです。

昔から胎教といって、お母さんの心の状態が良好だと胎児の情緒が安定していい影響を与え、逆の状態だと情緒が不安定になると言われてきました。

そのことが、科学的にも証明されてきたんです。

具体的には、胎内に録音できる機械を入れると、周囲の音がハッキリと録音されるんです。

妊娠6カ月あたりから胎児は周囲の音を認識し始めます。

例えば、ゆっくりした音楽を流すと胎児はリラックスしますが、反対に太鼓のような大きな音を鳴らしたり、夫婦げんかをしたりすると縮こまってしまいます。

ある女性の例です。

その女性は、赤ちゃんがお腹にいる時に夫から暴力を受けたんですが、その後生まれた赤ちゃんが育って、思春期を迎えた時に、そのお母さんをたたいてしまったんです。

その時の姿が、暴力をふるった夫の姿にそっくりだったといいます。

夫とはその子が赤ちゃんの間に離婚していましたので、暴力を受けているところを直接見た訳ではないんですが、胎児の時に何か暴力的なものを感じたのかもしれません。

このように、実は妊娠した時から子どもの発達は始まっているんです。

人間は生まれてくると、お母さんを中心に周りの人のお世話を受けながら育っていきます。

人間は生まれて歩くまでに1年、話せるようになめまで2年はかかります。

馬のように生まれて数時間では歩けません。

人間は、生理的早産といって、未完成のまま生まれてくるんです。

未完成ですから、周りの人が一生懸命育てなければ一人前になりません。

人生の最初で一番大事なのは無条件の愛情なんです。

愛情を注がれた子どもは、非常に積極的に行動しますので、発達がどんどん進んで行きます。

それに対して、暴力や育児放棄といった虐待を受け、十分な愛情が与えられなかった子どもは、指しゃぶりをしたり、幼稚園に行けなくなったりするなど、様々な心と身体の病気が出てきます。

日本では、親が子を育てられない場合、児童養護施設で育ちますが、その中には里親に育てられる子もいれば、裁判所で養子縁組をする人もいます。

児童養護施設で育てられたある子どもは、

『ひとすじの光』

という詩の中に

「どこで生まれても、誰から生まれても、人は皆同じ。

だから生きていこう」

と書いています。

生まれてくる子どもは、家庭環境を選べません。

だから、親の責任はそれだけ重いんです。

幼い頃に愛情を注いであげなければ、子どもは孤独を感じ、傷つき、悪い方向へ足を踏み入れてしまいます。

親に迷惑をかけたりするのは嫌いだからではなく、大好きだけど素直に気持ちを伝えられないからなんです。

一番大事なことは、愛情を注いでゆっくり話をすることなのではないでしょうか。

『世の中安穏なれ仏法ひろまれ』

早いもので、2011年も間もなく終わろうとしています。

さて先月中旬、ブータンのワンチュク国王夫妻が来日されました。

31歳という大変若い国王ですが、新婚一ヵ月21歳の初々しい王女を伴っての初来日でした。

二人は、国会での演説や東日本大震災の被災地へのお見舞い、そして京都など日本の各地を訪問されましたが、その行く先々で常に笑みをたたえながら合掌される姿がとても印象的でした。

ニュースで流れる二人のほほえましい様子に、心打たれた方も少なくないはずです。

ブータンは人口約70万人、ヒマラヤのふもとにある九州ほどの大きさの小さな国で、GNPは日本の20分の1と言われますが、

「自分は幸福だ」

と感じている人が国民の95パーセントということで有名です。

お金、健康、地位名誉、家内安全…。

「幸福」

の中身も人によって様々でしょうが、ブータンの人々の幸福の中身とは、人間関係や隣人関係、家族関係の平和と交流だと言われます。

身近な人との関係を大切にすることによって深い信頼関係を築き、家族も、友人も近所の人とも仲良く、地域全体、国全体が一つの家族のように支え合って生活しているそうです。

ワンチュク国王はこの度の国会演説の中で、その心を日本の被災地へと向けて、

「我々の物質的支援はつましいものですが、我々の友情、連帯、思いやりは心からの真実味のあるものです。

我々ブータンに暮らす者は、常に日本国民を親愛なる兄弟、姉妹であると考えてまいりました」

と述べられました。

そして

「ブータンの人々は、人々の間に深い調和を持ち、質素で謙虚な生活を続けており、若者が優れた才能、勇気や品位を持ち、先祖の価値観によって導かれるブータンの社会を私は誇りに思います」

と、演説を結ばれました。

私は、この二人の合掌される姿やさわやかな笑顔、またあふれんばかりのやさしさと自信に満ちた言葉の奥底に、仏さまの教えがあることを強く感じると同時に、国や経済力の大小、また人口の多少という価値観では計ることのできない確かなものがそこにあるように感じました。

今年は日本にとって特別な年で、3月に発生した東日本大震災は東北地方に未曾有の被害をもたらしました。

震災直後からボランティアの方々が全国から被災地に駆けつけ、義援金の輪は各界に広がり、日本人一人ひとりがその思いを行動に移しました。

被災地では多くの人々が過酷な生活を強いられながらも、助け合い支え合って復興への道を歩みつつあることは、まことに有り難いことです。

しかし一方では、福島第一原子力発電所の事故による放射能の影響は人々に不安とともに大きな影響を与えつつあり、まさしくそこでは物質的・経済的な豊かさを求め続けてきた私たち現代人の生き方が問われています。

また、新聞やテレビでは、いのちの軽視や倫理観の欠如などに伴う出来事が絶えることなく報道されています。

「世の中安穏なれ仏法弘まれ」

とは、今年750回忌をお迎えになった浄土真宗の開祖・親鸞聖人のお言葉です。

阿弥陀如来のご本願のはたらきを深く受け止められた親鸞聖人は、生きとし生けるいのちはすべて等しく、共に敬い支え合って心豊かに生きる道をお示し下さいました。

それは、阿弥陀如来の智慧の光に照らされ、おかげさまと生かされて有り難うと生きていく、合掌お念仏の生活であります。

今、混迷する私たちの社会あって、一人ひとりが自己中心的な心を省みて、同じいのちに生きる相手の存在に気づくことが求められています。

自分ひとりを善として、相手を排除する考え方には、真の安らぎも幸福もありません。

生きとし生けるものが争うことなく、安らぎのある、穏やかな社会。

聖人は、それは

「ご報恩のために、お念仏を心にいれて申す」

日暮らしをするところにこそ開かれるとお示し下さいました。

「親鸞聖人の往生浄土思想」(12月後期)

『教行信証』の

「教巻」は、

謹んで浄土真宗を按ずるに二種の廻向あり。

という言葉で始まります。

この

「浄土真宗」

とは、どのような意味でしょうか。

今日

「浄土真宗」

または

「真宗」

と呼ばれる、日本浄土教の一宗派があります。

それは、親鸞聖人によって明らかにされた、この

「浄土真宗」

という仏教の教えを信奉している仏教教団ですが、親鸞聖人がこの

『教行信証』

を書かれた時点では教団は成立していませんので、少なくともいわゆる浄土真宗の教団の意味でないことは明らかです。

ここで親鸞聖人がいわれる

「浄土真宗」

とは、阿弥陀仏の仏教を指しているのであり、阿弥陀仏の仏教は往相と還相という二種の廻向から成り立っていると言われるのです。

親鸞聖人はまさに、阿弥陀仏のこの二種の廻向によって浄土に往生し仏の証果を得られたのであり、その真理が

『教行信証』

で顕彰されているのだといえます、

では、親鸞聖人は自分が説かれる仏教思想を

「浄土真宗」

と言われたのでしょうか。

ことに、法然聖人の浄土教に対して、自分の仏教を浄土真宗と呼ばれたのでしょうか。

決してそうではありません。

それは、次の言葉から窺い知ることが出来ます。

智慧光のちからより本師源空あらはれて

浄土真宗をひらきつつ選択本願のべたまふ

善導・源信すすむとも本師源空ひろめずば

片州濁世のともがらはいかでか真宗をさとらまし

承久の太上法皇は本師源空を帰敬しき

釈門儒林みなともにひとしく真宗に帰入せり

いずれも親鸞聖人の

『高僧和讃』に見る

「源信聖人讃」

の文ですが、ここに明らかなように、親鸞聖人にとっての

「浄土真宗・真宗」

の教えは、法然聖人によって開かれた

「選択本願念仏」

の教法を指しており、さらにいえば『浄土文類聚鈔』で、

論家・宗師、浄土真宗を開きて、濁世邪偽を導かんとなり。

と説かれて、その

「浄土真宗」

の教えが、龍樹・天親・曇鸞・道綽・善導・源信と、純正浄土教によって伝承されてきた、念仏往生の教えであるとされ、さらにこの教えこそ選択本願の行信であり、釈尊が

『無量寿経』

で説かれる根本思想、他力真宗の正意であると、親鸞聖人は理解されます。