投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「有福の善太郎」

1782〜1856年。

天明2年(1782)10月、現在の島根県浜田市下有福町に生まれました。

善太郎は、天明6年(1786)5歳で母キヨと死別したことから、若い頃は暗くすさんだ

「毛虫の悪太郎」

の日々を送りました。

トヨと結婚しましたが、サト(2歳)、ルイ(2歳)、ノブ(3歳)、そめ(3歳)という4人の愛娘を11年の間に次々と失うという深い悲しみに出会いました。

以来

「よくよく重ねて重ねてご開山のご意見にとりつめてお聞かせに遇うて」

ついに、念仏の法にめぐりあうことができ、その大きな感動と喜びが生涯を支えることとなりました。

善太郎は、後半生、独特な字を連ねて筆まめに書きました。

暖かい体温と土のぬくもりを感じさせる筆跡が今も数多く残されています。

ほとんどの手記に、

「この善太郎」

という言葉が顔を出していますが、

「この」

という二字(「この」を重ねて、「このこの善太郎」とも書いている)には、宗教的実存の比類のない確かさと重さがあります。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」

という深い実存的自覚が二字に見事に結晶しています。

善太郎の

「つねのおおせ」

になっていた

「この善太郎(がために)」

の一句こそ、善太郎その人の一生の姿勢と精神を端的に言い表しているいのちの言葉であるといえます。

74歳の11月に長い手記を書きつづり、その最後を

「金剛の信心ばかりにてながく生死をへだてける、この善太郎」

と結びました。

年が明けて安政3年(1856)2月8日、75歳、

「有福の念仏ガニ」

の生涯を静かに終えました。

古い「善太郎」に死んで、新しい「この善太郎」(法名釋栄安)に生まれ変わり、

「このこの善太郎」に生き尽くした一生でした。

後に、僧純撰『妙好人伝』第四篇(巻下)に紹介されました。

はじめての…

はじめての…

3月11日に起こった東日本大震災から3カ月半後、初めて宮城を訪れました。

震災当日、外出中だった私が帰宅して初めて見たテレビの映像は、仙台空港に津波が押し寄せ、何もかもが流されていく光景。

「これ、どこ??」

その映像を見た瞬間の思いは、今でもはっきりと覚えています。

その瞬間、まさか日本で起きていることとは思いもしませんでした。

仙台空港への着陸間際、防風林でしょうか…、海岸沿いに植えられている何千とも思われる木々が、なぎ倒されたままになっており、その光景を見たときに初めて、ボランティア参加への不安を抱きました。

震災が起こり、メディアで取り上げられる映像を見ているうちに、フッと

「行かなきゃ!!」

という思いを抱きました。

しかしボランティアに参加した経験がないため、どうやって参加すればいいのかわからない…悶々とした思いを抱えながら日々を過ごしている時に、教区からボランティア派遣の募集要項が届きました。

そうして

「行かなきゃ!!」

という思いが、現実へと移行していったのです。

ボランティアでは、いろんな活動をさせていただきました。

津波の被害にあわれたお寺の墓地に入り込んだ流入物の撤去。

隣近所が見ず知らずの方ばかりになった仮設住宅に移られた方々の集会(お茶会)のお手伝い。

避難所での炊き出しに、学童保育のお手伝い、そして支援物資の仕分け等々。

するべきことは山ほどありました。

「ボランティア=力仕事」

と思っていた私にとっては、大変な驚きでした。

そして夜は夜で…

「夜の復興支援」

という名の飲んかた^^;

東北教区ボランティアセンターには宿泊施設があり、約1週間寝起きを共にするうちに多くの方と親しくなることができました。

そのうちのお一人は、既に1カ月滞在しておられたのですが、その方が

「とにかく、いろんな活動を経験してごらん。

できる、できない。

合う、合わないは、その活動を経験してからわかること。

一度やって無理だと思ったら、他の活動に集中すればいい。」

と。

その方の言葉通り、いろんな活動を経験し、そしてその活動を通して

「私には、やらなければならないことがまだある!!」

と思うようになってきました。

自意識過剰と思われるかもしれませんが、きっとそのように思って行かなければ、何もできないような気がするんです。

今月半ばから、また東北へ行くことにしています^^

宮城在住の方が話されていた言葉です。

「『日本はひとつ』『日本がつながる』こういう言葉が、すごく嬉しい」

と…

「大満読誦の大行」(後期)後席〜大満読誦(だいまんどくじゅ)の大行

さて、今度のお説教は、親鸞聖人が

「大満読誦の行」

というとてつもない大難行をされたという伝説でございます。

親鸞聖人の御一代については、三代目の覚如上人が書き残されたものがたくさん残っております。

それらは、事実でありましょう。

しかし、一方で親鸞聖人の伝説もたくさんあるんですね。

昨今は、いろんな研究によりまして、それは伝説、言い伝えに過ぎないとして、作られたものだと言われる方があります。

しかし、昔のお同行はそういった伝説を素直に聞き、涙をこぼして喜ばれ、味わわれたんですね。

伝説なら伝説で意味があるということです。

なぜなら、私が死んでも伝説なんて生まれません。

伝説が残る、逸話が生まれるというのは、いかにその方が素晴らしい方で、みんなから慕われ、敬われたかということですよ。

ご開山聖人がとても人間業では出来ない大満読誦の行を成し遂げられたということは伝説かもしれません。

でもそれは、聖人がいかにご高徳であられたかということの証になる訳でございます。

〜「大満読誦の大行」あらすじ〜

養和元年3月15日、親鸞聖人は京都の青蓮院という所で出家得度し、当時の名前、松若丸から範宴少納言公と変わります。

比叡山に入られた範宴様は、一心不乱に勉強学問・修行に励まれました。

年若くして、どんどん出世していく範宴様は、普賢菩薩・文殊菩薩の再来とも、釈迦如来のご化身かとも言われていました。

しかし、叡山三千坊と言われる多くの荒法師・大衆は、自分たちのことを棚に上げ、範宴様をひどく妬みました。

そこで彼らは大集会を開き、範宴様を比叡山から排除することを話し合います。

そして範宴様に

「大満読誦の行」

という行をさせることになりました。

それは一日一粒の生米の他には一切口にすることなく、たった一人で百日の間休みなく、比叡山の谷々を回って法華経を唱えて回る断食行。

実践すれば、死に至るであろう荒行でした。

行ずれば死、断れば追放を迫るというのが大衆の思惑でした。

範宴様はそれを受け、26歳で大満読誦の行に入られます。

日がたつにつれ、ボロボロになりながらも進みます。

そして、百日がたったとき、骨と皮とにやせ細り、袈裟衣は原形を留めず、髪も髭も伸び放題。

息絶えの姿になりながらも、範宴様は行法を満足されました。

しかし、範宴様は

「身命を捨てて修行をしても、仏の悟りは見えてこない」

と言われます。

そして、師の慈鎮和尚に対し、これより自力の修行をやめ、末代の人々を含む全ての人が救われる道を探すことを約束されたのでした。

こうした親鸞聖人の命がけのご苦労のおかげさまが、今、私どもが頂いている

「自力を捨てて、他力に帰せよ。

雑行を捨てて弥陀をたのめ。

弥陀の本願ただ一つをしっかりと問い求めていき、頂いていくことによって、間違いなしに、お浄土に参らせていただく」

という、親鸞聖人ご一流のおみのりであります。

こうして聞かせていただいた上は、そりご恩を喜びつつ、日暮らしさせていただくのが浄土真宗の門徒の姿です。

遠い昔の話と思わずに、親鸞聖人が、今の私たち一人ひとりのためにご苦労して下さったと、ちょうだいさせていただくことであります。

このたびのご縁、まずこれにて。

『聞法道をたずねて自己を知る』

「聞法」

とは、

「仏法を聞く」

ということですが、一般にはお釈迦さまの説かれた教えを、また浄土真宗ではそれに加えて親鸞聖人や蓮如上人の説かれた教えを聞くことだと理解されています。

改めて言うまでもなく、このように自分の進むべき道を求めて、仏法に真摯に耳を傾けるということは、とても尊い行為だと言えます。

ところで、中国の善導大師は

「仏教というのは私を待っている教えだ」

と述べておられます。

これはどのようなことかと言うと、仏教はどこかの誰かのことを述べているのではなく、この私のことを明らかにする教えだと言われているのです。

これは、仏教という教えは、聞けばきくほどに、自分のことを見事に言い当てている言葉があったということに出会っていく教えだということです。

けれども、私たちは誰よりも自分のことは、自身が一番よく分かっていると思っています。

確かに、自分のことですから、他の誰よりも自身が一番よく知っているはずです。

ところが

「本当にそうか」

と言われる、これが怪しいのです。

例えば

「自分の顔を知っていますか」

ときかれたら、誰もが

「知っていますよ」

と言われるに違いありません。

では、紙と鉛筆を渡されて

「何も見ないで自分の顔を描けますか」

と言われたらどうでしょう。

おそらく、大半の方が困ってしまわれることと思います。

毎日鏡で見て、よく知っているはずなのに、なかなか思うようには描けないものです。

では、改めて

「鏡を見ながら…」

ということならどうでしょうか。

それだと、何となく描けそうな気がしますが、お釈迦さまは

「賢いものは鏡を見ても、これが私の顔だとは思わない」

と言われます。

どのようなことかと言うと、私たちが鏡の前に立つのはどういった時でしょうか。

悲しかったり、辛かったりする時には、あまり立ちたくないものです。

気分的には、機嫌が良いか、普通といったような時に立つものです。

その時に、鏡に映っている自分の様子が気に入らなかったとしたら、おそらく時間の許す限り修正を試みるということになるのではないでしょうか。

そして、

「うん!」

と頷いて鏡を後にされると思うのですが、その頷いた顔をずっとしているかというと、百面相とまでは言わないものの喜怒哀楽、快・不快、いろんな表情をされることと思われます。

ところが、その一々をつぶさに知っているのは、周囲の人々であって、むしろ私だけが知らないのです。

ですから、

「写真写りが悪い」

という人が時々写真を見せて下さるのですが、

「いつもの顔!」

と思ったり、あるいは

「これは…、私の顔とは違うよね」

といって知り合いに写真を見せると

「いや、よくそんな顔をしてますよ」

と返されて、

「え〜っ」

とへこむこともあったりします。

このように、私たちは誰よりも自分のことをよく理解しているつもりでいるのですが、外見についてさえこのようなありさまです。

「内面は…」

というと、どう考えても

「他人に厳しく、自分には優しい」

といった生き方をしていますので、自己評価と他人の評価とを比べると、自己評価は80点以上つけてしまいそうです。

その一方、他人の評価が20〜30点くらいしかないと、

「70〜80点くらいはあるのではありませんか」

と、注文をつけてしまうかもしれません。

ですから、おそらく自分のことは半分程度しか分かっていないのだと思います。

「他人の悪口は嘘でも面白く、自分の悪口は本当でも腹が立つ」

という言葉があります。

他人の悪口は嘘でも面白いものですが、自分のこととなると、それがたとえ本当のことであっても、注意をされたりすると人は不機嫌になってしまうものです。

また、世の中には自分のことについて本当のことを言ってくれる人は、ほとんどいません。

自分でも、周囲の人にあまり本当のことは言われないのではないでしょうか。

それは、いつも本当のことばかり言っていたのでは、友だちの少ない人生を過ごすことになりかねないからです。

そうすると、私たちは、仏教に耳を傾けることを通して、初めて本当の

「自己」

というものを知ることが出来るのだと思います。

そして、教えを聞くことを通して、自分のあるべき姿を知り、それに少しでも近付こうとする生き方を求めて行くことになるのだと思われます。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(10月中期)

引文の後半は、この阿弥陀仏出現の原理を語っています。

名号が

「一実真如の妙理」

を円満しているのは、真如が仏の法蔵の一切を菩薩の相に示し、無碍の誓いを起こして、光明無量・寿命無量の功徳を成就されました。

その相が南無阿弥陀仏です。

したがって称名するということは、阿弥陀仏の大悲心が

「南無阿弥陀仏」

という大行となって、衆生の心に来たっていることにほかなりません。

念仏が念仏者を

「きらはず、さわりなく、へだてず」

平等に救うのは、必然の道理です。

この救いの構造が

「極楽無為涅槃界」

の文の結びで、より詳細に次のように説かれています。

この一切有情の心に方便法身の誓願を信楽するがゆへに、この信心すなはち仏性なり。

この仏性すなはち法性なり。

法性すなはち法身なり。

なぜ一切の有情は、やがて必ず、阿弥陀仏の誓願を信楽するのでしょうか。

この論理構造は

「信巻」

の三一問答に明らかです。

まず字訓釈において、本願の

「至心信楽欲生」

の三心は、本来、真実清浄の信楽の一心であって、この心にはいかなる虚仮も邪偽も雑わらないとされ、次いで法義釈で、その信楽の一心が、至心信楽欲生の功徳のすべてを名号におさめて衆生に回向されます。

この大悲心の躍動が、

「南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと、はからせたまひたる」

であり、そしてその

「はからい」

が、阿弥陀仏の衆生に

「自然のやうをしらせんれう」

であったのです

このように弥陀は常に名号を通して、

「本願の信楽を二心なく信ぜよ」

と勅命されているが故に、衆生はやがて必ず、阿弥陀仏の信楽を信知するに至ります。

この自然の道理を、親鸞聖人は

『尊号真像銘文』で

「如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがはざれば信楽とまふすなり。

と説かれます。

衆生が

「誓願を信楽する」

すべてが、阿弥陀仏の信楽の

「はからい」

によるもので、この信心を

「信心すなはち仏性」

だといわれるのです。

しかれば仏について二種の法身まします。

ひとつには法性法身とまうす。

ふたつには方便法身とまうす。

法性法身とまうすは、いろもなし、かたちもましまさず。

しかればこころもおよばず、ことばもたえたり。

この一如よりかたちをあらはして方便法身とまうす。

その御すがたに法蔵比丘となのりたまひて不可思議の四十八の大誓願をおこしあらはしたまふなり。

「六連島(むつれじま)のお軽(かる)」

1801〜1860年。

享和元年(1801年)に六連島で生まれました。

少女時代からおてんばぶりを発揮し、娘時代には気性の激しい男まさりの性格で、六連島の青年たちは“お軽のところには養子に行ってはならない”と言い合っていたといわれます。

やがて19歳になって、幸七という28歳の青年を養子として迎え、お軽は貞淑な妻に変身。

懸命に夫に仕えましたが、夫婦に破局の訪れるのは早く、下関や北九州に野菜の行商に出た夫の幸七に愛人ができ、お軽は嫉妬に怒り苦しむことになりました。

この夫の浮気が逆縁となり、お軽は島に唯一ある西教寺の現道住職を訪れるようになりました。

「幸七さんの浮気はあんたのためにはかえって良かった」

「良かったとは何ですか!」

「こんな事がなければ、あんたは仏法を聞くような人ではない。

だから“良かった”のじゃ」

こんなやりとりの後、お軽は熱心に聞法するようになりました。

歳月が流れ、すでに35歳になったお軽は、風邪がもとで生死の境をさまよった病床で自分の無力さを痛感し、如来の慈悲がしみじみと味わえるようになりました。

そして、この頃から、お軽の口から信心の喜びが次々と歌となって生まれてきました。

文字は一字も読み書きできないお軽は、歌が思い浮かぶと西教寺へかけこんでは現道住職に筆録してもらい、奉公にでている子供たちにもその歌を送りました。

やがて夫の幸七や6人の子供たちも、そろって法座に参詣するようになり、なごやかな念仏一家をつくりあげていきました。

お軽は56歳のとき、コレラであっけなく最後を遂げましたが、息を引き取る数か月前に歌を残していました。

亡きあとに軽を尋ぬる人あらば弥陀の浄土に行ったと答えよ

六連島では、お盆の三日間は、夜を徹して盆踊りが行われているといいますが、その中に

「法悦踊り」

というのがあります。

お軽の歌が今も

「盆踊り歌」

となって歌いつがれているのです。