投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「西本願寺の至宝とその保存について」(上旬)小さな発見が、大きな喜び

======ご講師紹介======

荒木かおりさん(川面美術研究所代表取締役)

☆演題「西本願寺の至宝とその保存について」

ご講師は、川面美術研究所代表取締役の荒木かおりさんです

昭和33年生まれ。

昭和55年に京都教育大学美術科日本画専攻を卒業。

同年、重要文化財の二条城二ノ丸御殿障壁画模写事業に参加。

その後、昭和62年から平成21年に至るまで、西本願寺飛雲閣三十六歌仙扉絵や大徳寺唐門、慈照寺(銀閣寺)観音殿といった国宝をはじめ、京都西本願寺の御影堂を含む数々の重要文化財、建造物の復元制作、現状模写、保存修理、彩色調査など、多岐にわたる修復事業に携わっておられます。

平成17年に亡くなられた父・川面稜一氏の後を継ぎ、川面美術研究所代表取締役に就任。

==================

文化財修復という仕事を通じ、九州とは以前から深い関わりがありました。

ここから近くで言いますと、熊本城の本丸御殿大広間と若松の間と昭君之間(しょうくん)の間に、きらびやかな障壁画がありますが、そこの修理をさせて頂きました。

他にも、大分県にある、平安時代の建築で国宝の富貴寺大堂(ふきでらおおどう)の壁画の現状模写を父が行い、その後を継いで私が復原をしました。

現在は、大分県歴史博物館に模写が展示されており、みなさんにも見て頂けます。

文化財の修理は、京都におりますと

「ただ今文化財の修理中」

といった看板もときどき見受けられますが、他の地域ではなかなかなじみがなく、いったいどんなことをしているのかわかりにくいと思います。

本日は京都・西本願寺を中心として、文化財をどのように修理、保存してきたかをお話したいと思います。

文化財の修理は、修理に携わる者にしか撮れない写真があったり、みなさんの目には絶対届かないような、天井の隅の方にあるものを見つけたり、古い人の墨書を見つけたりなど、そういう小さな発見が私たちの大きな喜びになっています。

また、文化財の修理にも種類がありまして、私は特に建造物の中の装飾の部分を担当しています。

装飾といいますと、神社の場合なら朱色に塗られた柱やその上にある彫刻に施された美しい彩色を

「建造物彩色」

といって、ご本山にもそういう装飾がたくさんあります。

その建物の中でも特に、絵の具を使ってやる仕事を私の専門としております。

仏像の修理なども行いますが、主に建物に付随する装飾の修理をしております。

文化財の修復の仕事は祖父の代から数えて三代目になります。

祖父は法隆寺の金堂壁画の模写に携わり、父が富貴寺大堂壁画の模写や京都の宇治平等院の壁画の模写を行ってきました。

祖父の代から、私にも古いものが好きな血が脈々と流れているようで、現在は京都・二条城の二の丸御殿に多くの襖絵(ふすまえ)がありますが、その復原模写の事業を昭和47年から始め、今もまだ終わっていません。

私のライフワークになりそうです。

さて、本願寺については、昭和55年に唐門(からもん)の修復を行いました。

唐門は本願寺の南側にあり、美しい彩色彫刻が施されています。

一日中見ていても飽きないことから

「日暮門(ひぐらしもん)」

とも呼ばれ、国宝に指定されています。

また飛雲閤(ひうんかく)の三十六歌仙の修復も手がけました。

飛雲閤は、

「金閣・銀閣・飛雲閤」

といって、京の三名閤(さんめいかく)といわれます。

その飛雲閤二階の歌仙の間に美しい障壁画があり、これが三十六歌仙です。

柿本人麻呂や小野小町といった歌人が杉戸に生き生きと描かれています。

また、飛雲閤の隣には黄鶴台(こうかくだい)という浴室がありまして、こちらの絵画も復原いたしました。

そして本願寺で一番大きな建物である御影堂(ごえいどう)にある装飾の修復を平成13年から17年にかけて行いました。

北能舞台に描かれている板松のCG復原や、経蔵(きょうぞう)の中に収められている仏像の彩色の修復、大谷本廟(おおたにほんびょう)にある二天像の修復もさせていただきました。

最近では、平成20年から23年まで白書院・虎の間の修復を、4月から始まる大遠忌法要に間に合わせるよう、みんなで力を合わせ、なんとか今年の3月に終えたばかりです。

『聞法道をたずねて自己を知る』

寺の子ども会に来る子どもたちの中に、空手を習っている子どもたちがいます。

「道場」

という言葉をよく知っているその子たちが、こんなことを聞いてきました。

「子ども会のおたよりに、『お寺は道場です』と書いてあったけど、お寺って道場なの?」

これはいい機会だなと思って、その子たちと少し話をしてみました。

「お寺が道場って不思議に思ったんでしょう。

君たちはいつも道場で練習するからね。

でもね、お寺も道場なんだよ。」

というと、そろって

「そうかなあ」

という顔をして、

「お寺ってさ、お経読んだり、お話聞いたり、遊んだり食べたりするところだけど、道場とは違うと思う。」

「お寺では練習しないし。」

「厳しく怒られないしさ。」

という返事が返ってきました。

そうでしょうね。

彼らにとっての道場とは、道着を着て、厳しい練習をして、上達していくための場所ですもんね。

お寺って、道着も着ないし、厳しい練習もしませんし、子ども会では特に子どもたちをしかることもないので、道場だなんて思えなくて当然でしょう。

続けて話してみました。

「じゃあ、君たちにとって道場ってどんなところ?」

と聞いてみると、すかさず

「上手になるために練習するところに決まってるじゃん。」

「そうそう、強くなるための場所だよ。」

「そして、自分を磨くところだよ。」

なるほどね。

「自分を磨くところか」

と思いつつ、

「自分を磨くってどういうこと」

と聞いてみると

「うーん」

「・・・」

としばらく沈黙し考えこんでいましたが、

「先生方がそういうよ。

強くなるだけじゃなくて、自分を整える場なんだぞって。」

何と、今度は

「自分を整える」

という言葉まで出てきました。

「すごいな」

と思いつつ、さらに聞いてみました。

「自分を整えるってむずかしいけど、君らはどういうことだと思う?」

すると、今度はすぐに6年生の男の子が

「先生からは、どんなに強くなったからと言っても、相手を敬うこころを忘れちゃいけないんだって言われてるけど・・。」

相手を敬うという言葉が出てきたところで、ちょっと話を変えてみました。

「みんなはさ、どうしていつもお寺に来るの?」

「子ども会があるからだよ。

友達に会えるし。」

「子ども会はお菓子を食べられるし、楽しいし!」

何ともありがたいですね。

子ども会は楽しい、お寺は楽しいと言ってくれる子どもたちなんですね。

だからこそさらに聞いてみました。

「それだけ?お経やお話はどう?」

すると6年生が

「ごめーん、先生。

そんなに楽しくはないよ。

楽しくはないけど、大事なことを教えてもらっていると思ってるよ。

僕は頭が二つの鳥の話(共命の鳥・・いのちはつながりあっていることを教えてくれます)やシビ王の話(いのちに軽重はない、みんな尊いいのちであることを教えてくれます)が好きだよ。

僕ね、一人で生きてるんじゃないって、よく思うようになったよ。」

続いて4年生の弟が

「幼稚園の時からずっと、ごはんの時に

『みほとけと皆様のおかげにより』

って言ってるけど、その意味が分かってきた。

食べることは当たり前じゃないんだってことが今はよくわかるよ。」

よく聞いていてくれるのですね。

いのちのこと、いっぱい話してきてよかったなと思います。

「一人で生きているのではなくて、いろんないのちに助けられていることや、いのちが平等であることを知ることは、とても大切なことだよね。

それを知ることは自分を磨くこと、自分を整えることにならないかな?」

「うーん。

違うところもあるけど、同じところもあるかな。

相手を敬うこころを忘れちゃいけないっていつも聞くけど、仏さまもそう教えてくれてるしね。」

「じゃあ、仏様の教えを聞くお寺は道場といってもいいんじゃない?」

「といってもいいかもしれないけど・・。」

「それならば…」

ということで、

「一つみんなに謝らないといけないことがあるよ。

お寺は道場なんだけど

『聞法(もんぽう)の道場』

と言って、仏様の教えを聞いて、自分自身のこと、いのちのことを見つめ学んでいく場所だということなんだ。

この『聞法の』をおたよりでは入れることを忘れていたよ」

「ふーん、それならなんとなくわかるかな〜。」

子どもたちどうやら、お寺が道場(道をたずねて自己を知る場)であることを認めてくれたようです。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(10月後期)

では

「信心すなはち仏性」

とは、どういうことでしょうか。

仏性とは、法性であり法身です。

したがって、如来の心は本来無上仏であって、

「かたち」

はましません。

ところでこの仏性が、衆生の心に信心を生起せしめます。

そうしますと、

「法身」

には二種の相がなければなりません。

一は衆生にとって、いろもなく、心もおよばず、言葉では表現できない、一切を超越している法性としての法身です。

二はその衆生の心に信心生起せしめる、一如よりかたちを現した方便法身としての法身です。

その

「御すがた」

が、法蔵という菩薩の相を示して、不可思議の大誓願を起こし、光明無量・寿命無量の功徳を成就して、この世に出現されました。

この

「御かたち」

を、天親菩薩は

「十方無碍光如来」

と名づけられ、自らこの如来の浄土に生まれるべく、一心に帰命しておられます。

さて、この阿弥陀仏は、誓願の業因にむくいて成就した仏ですから、報身如来です。

「報といふはたねにむくいたる」

という意味だからです。

そこで天親菩薩の

「尽十方無碍光如来」

の意を受けて、親鸞聖人は

「極楽無為涅槃界」

の教示を、次のように結ばれます。

この報身より応化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光をはなたしめたまふゆへに尽十方無碍光仏とまうすひかりの御かたちにて、いろもましまさず、かたちもましまさず。

すなはち法性法身におなじくして、無明のやみをはらひ、悪業にさへられず、このゆへに無碍光仏とまうすなり。

無碍は有情の悪業煩悩にさへられずとなり。

しかれば阿弥陀仏は光明なり。

光明は智慧のかたちなりとしるべし。

「尽十方無碍光仏」

とはどのような仏でしょうか。

「尽十方」

とは、宇宙の全体、どのような微塵世界をも覆い尽くす、という意味です。

この仏は法性法身に同じですから、色もなく形もましません。

しかもこの仏は、無碍の光を放ちたもうています。

無碍とは、いかなる障害物にも邪魔されることはありませんし、無明の闇を除き一切の悪業に障碍されることもありません。

どのような悪業煩悩を持った有情であろうとも、その無明の心を問題にしないで闇を根本的に除き、光明で輝かします。

それが無碍光の徳であり、その光明が

「智慧のかたち」

です。

この光明が無量・無辺・無碍と呼ばれるのは、この仏の智慧の功徳性を示しています。

「有福の善太郎」

1782〜1856年。

天明2年(1782)10月、現在の島根県浜田市下有福町に生まれました。

善太郎は、天明6年(1786)5歳で母キヨと死別したことから、若い頃は暗くすさんだ

「毛虫の悪太郎」

の日々を送りました。

トヨと結婚しましたが、サト(2歳)、ルイ(2歳)、ノブ(3歳)、そめ(3歳)という4人の愛娘を11年の間に次々と失うという深い悲しみに出会いました。

以来

「よくよく重ねて重ねてご開山のご意見にとりつめてお聞かせに遇うて」

ついに、念仏の法にめぐりあうことができ、その大きな感動と喜びが生涯を支えることとなりました。

善太郎は、後半生、独特な字を連ねて筆まめに書きました。

暖かい体温と土のぬくもりを感じさせる筆跡が今も数多く残されています。

ほとんどの手記に、

「この善太郎」

という言葉が顔を出していますが、

「この」

という二字(「この」を重ねて、「このこの善太郎」とも書いている)には、宗教的実存の比類のない確かさと重さがあります。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」

という深い実存的自覚が二字に見事に結晶しています。

善太郎の

「つねのおおせ」

になっていた

「この善太郎(がために)」

の一句こそ、善太郎その人の一生の姿勢と精神を端的に言い表しているいのちの言葉であるといえます。

74歳の11月に長い手記を書きつづり、その最後を

「金剛の信心ばかりにてながく生死をへだてける、この善太郎」

と結びました。

年が明けて安政3年(1856)2月8日、75歳、

「有福の念仏ガニ」

の生涯を静かに終えました。

古い「善太郎」に死んで、新しい「この善太郎」(法名釋栄安)に生まれ変わり、

「このこの善太郎」に生き尽くした一生でした。

後に、僧純撰『妙好人伝』第四篇(巻下)に紹介されました。

はじめての…

はじめての…

3月11日に起こった東日本大震災から3カ月半後、初めて宮城を訪れました。

震災当日、外出中だった私が帰宅して初めて見たテレビの映像は、仙台空港に津波が押し寄せ、何もかもが流されていく光景。

「これ、どこ??」

その映像を見た瞬間の思いは、今でもはっきりと覚えています。

その瞬間、まさか日本で起きていることとは思いもしませんでした。

仙台空港への着陸間際、防風林でしょうか…、海岸沿いに植えられている何千とも思われる木々が、なぎ倒されたままになっており、その光景を見たときに初めて、ボランティア参加への不安を抱きました。

震災が起こり、メディアで取り上げられる映像を見ているうちに、フッと

「行かなきゃ!!」

という思いを抱きました。

しかしボランティアに参加した経験がないため、どうやって参加すればいいのかわからない…悶々とした思いを抱えながら日々を過ごしている時に、教区からボランティア派遣の募集要項が届きました。

そうして

「行かなきゃ!!」

という思いが、現実へと移行していったのです。

ボランティアでは、いろんな活動をさせていただきました。

津波の被害にあわれたお寺の墓地に入り込んだ流入物の撤去。

隣近所が見ず知らずの方ばかりになった仮設住宅に移られた方々の集会(お茶会)のお手伝い。

避難所での炊き出しに、学童保育のお手伝い、そして支援物資の仕分け等々。

するべきことは山ほどありました。

「ボランティア=力仕事」

と思っていた私にとっては、大変な驚きでした。

そして夜は夜で…

「夜の復興支援」

という名の飲んかた^^;

東北教区ボランティアセンターには宿泊施設があり、約1週間寝起きを共にするうちに多くの方と親しくなることができました。

そのうちのお一人は、既に1カ月滞在しておられたのですが、その方が

「とにかく、いろんな活動を経験してごらん。

できる、できない。

合う、合わないは、その活動を経験してからわかること。

一度やって無理だと思ったら、他の活動に集中すればいい。」

と。

その方の言葉通り、いろんな活動を経験し、そしてその活動を通して

「私には、やらなければならないことがまだある!!」

と思うようになってきました。

自意識過剰と思われるかもしれませんが、きっとそのように思って行かなければ、何もできないような気がするんです。

今月半ばから、また東北へ行くことにしています^^

宮城在住の方が話されていた言葉です。

「『日本はひとつ』『日本がつながる』こういう言葉が、すごく嬉しい」

と…

「大満読誦の大行」(後期)後席〜大満読誦(だいまんどくじゅ)の大行

さて、今度のお説教は、親鸞聖人が

「大満読誦の行」

というとてつもない大難行をされたという伝説でございます。

親鸞聖人の御一代については、三代目の覚如上人が書き残されたものがたくさん残っております。

それらは、事実でありましょう。

しかし、一方で親鸞聖人の伝説もたくさんあるんですね。

昨今は、いろんな研究によりまして、それは伝説、言い伝えに過ぎないとして、作られたものだと言われる方があります。

しかし、昔のお同行はそういった伝説を素直に聞き、涙をこぼして喜ばれ、味わわれたんですね。

伝説なら伝説で意味があるということです。

なぜなら、私が死んでも伝説なんて生まれません。

伝説が残る、逸話が生まれるというのは、いかにその方が素晴らしい方で、みんなから慕われ、敬われたかということですよ。

ご開山聖人がとても人間業では出来ない大満読誦の行を成し遂げられたということは伝説かもしれません。

でもそれは、聖人がいかにご高徳であられたかということの証になる訳でございます。

〜「大満読誦の大行」あらすじ〜

養和元年3月15日、親鸞聖人は京都の青蓮院という所で出家得度し、当時の名前、松若丸から範宴少納言公と変わります。

比叡山に入られた範宴様は、一心不乱に勉強学問・修行に励まれました。

年若くして、どんどん出世していく範宴様は、普賢菩薩・文殊菩薩の再来とも、釈迦如来のご化身かとも言われていました。

しかし、叡山三千坊と言われる多くの荒法師・大衆は、自分たちのことを棚に上げ、範宴様をひどく妬みました。

そこで彼らは大集会を開き、範宴様を比叡山から排除することを話し合います。

そして範宴様に

「大満読誦の行」

という行をさせることになりました。

それは一日一粒の生米の他には一切口にすることなく、たった一人で百日の間休みなく、比叡山の谷々を回って法華経を唱えて回る断食行。

実践すれば、死に至るであろう荒行でした。

行ずれば死、断れば追放を迫るというのが大衆の思惑でした。

範宴様はそれを受け、26歳で大満読誦の行に入られます。

日がたつにつれ、ボロボロになりながらも進みます。

そして、百日がたったとき、骨と皮とにやせ細り、袈裟衣は原形を留めず、髪も髭も伸び放題。

息絶えの姿になりながらも、範宴様は行法を満足されました。

しかし、範宴様は

「身命を捨てて修行をしても、仏の悟りは見えてこない」

と言われます。

そして、師の慈鎮和尚に対し、これより自力の修行をやめ、末代の人々を含む全ての人が救われる道を探すことを約束されたのでした。

こうした親鸞聖人の命がけのご苦労のおかげさまが、今、私どもが頂いている

「自力を捨てて、他力に帰せよ。

雑行を捨てて弥陀をたのめ。

弥陀の本願ただ一つをしっかりと問い求めていき、頂いていくことによって、間違いなしに、お浄土に参らせていただく」

という、親鸞聖人ご一流のおみのりであります。

こうして聞かせていただいた上は、そりご恩を喜びつつ、日暮らしさせていただくのが浄土真宗の門徒の姿です。

遠い昔の話と思わずに、親鸞聖人が、今の私たち一人ひとりのためにご苦労して下さったと、ちょうだいさせていただくことであります。

このたびのご縁、まずこれにて。