投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

カンボジアを舞台にした映画

カンボジアを舞台にした映画

「僕たちは世界を変えることができない」

が公開中です。

4人の学生が中心となり、様々なチャリティーイベントを開催しながら150万円を集め、カンボジアに学校を建てるという実話をもとにした映画です。

ノンフィクション映画と言うだけあって、カンボジアの今の実情、そして残虐な歴史もリアリティに描かれています。

カンボジアに興味のある方は是非ご覧ください。

カンボジアと言えば、クメール王朝の栄華を今に伝える

「世界遺産」

アンコールワットが有名です。

それはそれは壮麗で神々しく、カンボジア人にとってはまさに聖域であり最高の誇りです。

しかし一方で、ポルポト政権時代の大量虐殺や、カンボジア国土の至る所に今でも残る地雷原など、カンボジア人の心の中には、精神的外傷として

「負の遺産」

を抱えていることもまた事実です。

カンボジア人の平均年齢は2008年のデータで21,7歳。

若いなぁと感じるこの年齢が意味するもの。

それは、今から約30年程前、クメールルージュとも呼ばれるポルポト派により、教師や僧侶などを中心に罪なき人々を拷問、無残な虐殺が行われ、当時800万人いた人口は約半数近くにまで減少したとも言われているそうです。

カンボジアに行きますと、ご高齢の方をお見かけすることはあまりありませんが、そのようなところにも凄惨な歴史の背景が色濃く残っているようです。

カンボジア人の宗教は、国民の95%以上が仏教徒であり、現在の国王もかつて出家した経験を持つほど、国家や国民生活の根底には仏教の教えが浄く流れています。

国の官庁にも宗教省があり、その大臣には出家した経験のある方が就かれます。

街にはあちこちにパゴダ(お寺)があり、日本の檀家制度のような寺院形態ではなく、人々はどのお寺にも自由に出入りしてお参りをします。

またパゴダの中には学校や診療所、孤児院などの施設を持つところもあり、生活に根ざした中で信仰に生きる人々の姿はまさに仏教先進国といってもよいでしょう。

ニュージーランドに、かつてのポルポト時代、難民としてカンボジアから逃れていかれた方々の住む地域があるそうです。

内戦の終わった後もカンボジアには帰らず、異国での生活が続く中で、カンボジア政府が真っ先に行った支援が

「お坊さんの派遣」

であったそうです。

当然身近にパゴダなどの礼拝できる環境がありませんから、不安と緊張にさらされた人々の心の平安のため、まずお坊さんが派遣されたのでした。

私はこのことは、凄いことだと感じました。

3月11日、東日本大震災がありました。

「戦後最大の危機」

という当時の管総理の言葉も鮮烈でした。

今、様々な形の復興支援があります。

どれもみんな必要です。

私は宗教の根幹は

「生きる力」

だとも思います。

順風満帆な人生は、宗教など必要でないと感じるのかもしれません。

けれども、逆境に遭い、困難に直面し、あるいは大切な人を失い、予期せぬ大波を受けまさに自分が転覆してしまいそうな時、傾いた船体(私)をまた元の位置へ復元してくれる大きな力を心の内に持つのと持たないのでは、大きな違いがあるように思います。

寄り添うとは何か、豊かさとは何か。

震災が問いかけた課題は大きいですが、一宗教者として真摯に向き合わなければならないと思います。

『和顔微笑みは心和らぐ』

最近誰かに笑いかけられて嬉しいと感じた事がありましたか?あるいは誰かに笑いかけてみましたか?

暗いニュースや出来事が続き、心の底から『笑う』ということが少なくなっているような気がします。

和顔(わげん)は、

『穏やかな、にこやかな笑顔』

という意味があります。

あなたも『和顔愛語(わげんあいご)』という言葉で耳にしたことがあるのではないでしょうか?

これは浄土真宗の三部経の一つ、大経と呼ばれる『仏説無量寿経』にでてきます。

穏やかな、にこやかな笑顔で優しいおもいやりのある言葉をもって、人に接することを心がけていきましょう、という意味をもっています。

また、この言葉は

『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』

というお経に説かれる

『無財の七施』

にも言葉がでてきます。

無財の七施とは、人に施す財物やお金がなくても、施しができますよということを伝えているもので、その中に和顔施(わげんせ)とあります。

つまり、穏やかでにこやかな笑顔で、人に接することが他の人への施しとなっているのですよ、ということを表しているのです。

あなたは、赤ちゃんに接する両親や祖父母の方の姿をご覧になったことはありませんか?

腹を立てて、怒った顔で赤ちゃんに語りかけているでしょうか?

あるいは、涙を流しながら悲しそうな顔で語りかけているでしょうか?

私は、正直そんなふうに接する赤ちゃんの両親や祖父母の方をみたことがありません。

共通して、みんな笑いながら嬉しそうな表情で語りかけていませんか?

日常生活・社会生活の中での赤ちゃんは、私たちに何か施しができるものをもっているか?というと、全く持っていないと言わざるを得ません。

どちらかというと私たちに対して役に立つ何かをしてくれるどころか、面倒をみたり、常に育児をしていかないといけないという部分からみても私たちに施しを受けるばかりと言えます。

では、それなのに私たちはなぜ赤ちゃんに嬉しそうに語りかけるのでしょうか?

私たち自身がその赤ちゃんの和顔(わげん)に施しをうけているに他ならないのではないでしょうか?

赤ちゃんのその姿に大変癒されているのではないでしょうか?

育てているつもりが、実は育てられていた、赤ちゃんの和顔に助けられていた、と言えますね。

私たちはこのように、共に笑いあい、語り合う中でみえないところで助け合い、支え合っていることに気づかされる気が致します。

ともに微笑みあいながら、よりそいながら、優しい気持ちで『いのち』を支え合い育てあっていきたいものですね。

さぁ、今日も一緒に笑いあっていきましょう!

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(11月前期)

では、光明が智慧の

「かたち」

だとして、それは私たち衆生にとって、具体的に何なのでしょうか。

無限の智慧は、法性法身に同じであって、凡夫のよく知りうるところではありません。

だからこそ光明がその象徴になるのですが、日月の輝きをとおして、光明の徳性の一端を知りうるとしても、仏の光明はやはり

「いろもましまさず、かたちもましまさず」

であって、光明の輝きそのものは、凡夫には把捉しえません。

ではその光明の

「かたち」

とは何でしょうか。

『浄土和讃』に、

光明てらしてたへざれば不断光仏となづけたり

聞光力のゆへなれば心不断にて往生す

という一首をみることができます。

この中、

「聞光力」

の語に

「ミダノオンチカヒヲシンジマヒラスルナリ」

と左訓されています。

「弥陀の御誓い」

とは、

「南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと、はからはせたまひたる」

誓いにほかなりません。

「南無阿弥陀仏」

は諸の善法を摂し、諸の徳本を具した真如一実の功徳宝海であり、称名よく衆生一切の無明を破し、志願を満てたもうからです。

したがって

「聞光力」の

「光」が

「念仏せよ。

救う。

という音声であり、

「聞」が、

称名する念仏者がその尽十方無碍光の勅命を信じる心となります。

まさに尽十方無碍光如来の光明の

「かたち」こそ、

「南無阿弥陀仏」

であったのです。

では、阿弥陀仏の

「極楽無為涅槃界」

とは、どのような浄土なのでしょうか。

極楽といい安楽といい安養といいますが、これらはすべて

「無為」

の語の形容であって、無為とは、虚無であり実相であり真如であり法性であり法身です。

したがってこの土は、法性法身に同じであって、楽の究極、無苦無楽の涅槃界です。

一実真如功徳大宝海の浄土は宇宙の全体を覆い、十方の微塵世界のすみずみまで満ち満ちています。

ただし一如であり法性である浄土は、いろもなくかちもましまさないといわれます。

この浄土の本性は迷える凡夫の思議を超えています。

ただし浄土の存在は、その迷える凡夫を救う場としてましますのです。

そのために、浄土は真如のままで衆生の現前に相をあらわさなくてはなりません。

それが真如の智慧、尽十方無碍光という光明です。

それ故に親鸞聖人は、

「真仏土巻」で、

「真仏・真土」

について仏は不可思議光如来であり、土は無量光明土なりと説かれます。

けれども、このように無量光明土といっても、その光明もまた衆生の思議を超えており、凡夫がその光明に出遇うことは不可能です。

そこで真如の尽十方無碍光如来が、一切の衆生を無上仏にならしめんがために、音声となって相を現わされたのです。

それが、南無阿弥陀仏という言葉です。

そうだとすれば、南無阿弥陀仏を離れて阿弥陀仏がましまさないのと同じく、南無阿弥陀仏を離れてその浄土も存在しなくなってしまいます。

つまり浄土は、存在論的にあるいは時間論的に、宇宙のどこかに存在するのではなくて、常に愚かな凡夫を救うための場として、十方の微塵世界にあるのだといえます。

その救いのはたらきが南無阿弥陀仏です。

阿弥陀仏と同様、浄土もまた南無阿弥陀仏を除いてはありえない、といわなくてはなりません。

「西本願寺の至宝とその保存について」(上旬)小さな発見が、大きな喜び

======ご講師紹介======

荒木かおりさん(川面美術研究所代表取締役)

☆演題「西本願寺の至宝とその保存について」

ご講師は、川面美術研究所代表取締役の荒木かおりさんです

昭和33年生まれ。

昭和55年に京都教育大学美術科日本画専攻を卒業。

同年、重要文化財の二条城二ノ丸御殿障壁画模写事業に参加。

その後、昭和62年から平成21年に至るまで、西本願寺飛雲閣三十六歌仙扉絵や大徳寺唐門、慈照寺(銀閣寺)観音殿といった国宝をはじめ、京都西本願寺の御影堂を含む数々の重要文化財、建造物の復元制作、現状模写、保存修理、彩色調査など、多岐にわたる修復事業に携わっておられます。

平成17年に亡くなられた父・川面稜一氏の後を継ぎ、川面美術研究所代表取締役に就任。

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文化財修復という仕事を通じ、九州とは以前から深い関わりがありました。

ここから近くで言いますと、熊本城の本丸御殿大広間と若松の間と昭君之間(しょうくん)の間に、きらびやかな障壁画がありますが、そこの修理をさせて頂きました。

他にも、大分県にある、平安時代の建築で国宝の富貴寺大堂(ふきでらおおどう)の壁画の現状模写を父が行い、その後を継いで私が復原をしました。

現在は、大分県歴史博物館に模写が展示されており、みなさんにも見て頂けます。

文化財の修理は、京都におりますと

「ただ今文化財の修理中」

といった看板もときどき見受けられますが、他の地域ではなかなかなじみがなく、いったいどんなことをしているのかわかりにくいと思います。

本日は京都・西本願寺を中心として、文化財をどのように修理、保存してきたかをお話したいと思います。

文化財の修理は、修理に携わる者にしか撮れない写真があったり、みなさんの目には絶対届かないような、天井の隅の方にあるものを見つけたり、古い人の墨書を見つけたりなど、そういう小さな発見が私たちの大きな喜びになっています。

また、文化財の修理にも種類がありまして、私は特に建造物の中の装飾の部分を担当しています。

装飾といいますと、神社の場合なら朱色に塗られた柱やその上にある彫刻に施された美しい彩色を

「建造物彩色」

といって、ご本山にもそういう装飾がたくさんあります。

その建物の中でも特に、絵の具を使ってやる仕事を私の専門としております。

仏像の修理なども行いますが、主に建物に付随する装飾の修理をしております。

文化財の修復の仕事は祖父の代から数えて三代目になります。

祖父は法隆寺の金堂壁画の模写に携わり、父が富貴寺大堂壁画の模写や京都の宇治平等院の壁画の模写を行ってきました。

祖父の代から、私にも古いものが好きな血が脈々と流れているようで、現在は京都・二条城の二の丸御殿に多くの襖絵(ふすまえ)がありますが、その復原模写の事業を昭和47年から始め、今もまだ終わっていません。

私のライフワークになりそうです。

さて、本願寺については、昭和55年に唐門(からもん)の修復を行いました。

唐門は本願寺の南側にあり、美しい彩色彫刻が施されています。

一日中見ていても飽きないことから

「日暮門(ひぐらしもん)」

とも呼ばれ、国宝に指定されています。

また飛雲閤(ひうんかく)の三十六歌仙の修復も手がけました。

飛雲閤は、

「金閣・銀閣・飛雲閤」

といって、京の三名閤(さんめいかく)といわれます。

その飛雲閤二階の歌仙の間に美しい障壁画があり、これが三十六歌仙です。

柿本人麻呂や小野小町といった歌人が杉戸に生き生きと描かれています。

また、飛雲閤の隣には黄鶴台(こうかくだい)という浴室がありまして、こちらの絵画も復原いたしました。

そして本願寺で一番大きな建物である御影堂(ごえいどう)にある装飾の修復を平成13年から17年にかけて行いました。

北能舞台に描かれている板松のCG復原や、経蔵(きょうぞう)の中に収められている仏像の彩色の修復、大谷本廟(おおたにほんびょう)にある二天像の修復もさせていただきました。

最近では、平成20年から23年まで白書院・虎の間の修復を、4月から始まる大遠忌法要に間に合わせるよう、みんなで力を合わせ、なんとか今年の3月に終えたばかりです。

『聞法道をたずねて自己を知る』

寺の子ども会に来る子どもたちの中に、空手を習っている子どもたちがいます。

「道場」

という言葉をよく知っているその子たちが、こんなことを聞いてきました。

「子ども会のおたよりに、『お寺は道場です』と書いてあったけど、お寺って道場なの?」

これはいい機会だなと思って、その子たちと少し話をしてみました。

「お寺が道場って不思議に思ったんでしょう。

君たちはいつも道場で練習するからね。

でもね、お寺も道場なんだよ。」

というと、そろって

「そうかなあ」

という顔をして、

「お寺ってさ、お経読んだり、お話聞いたり、遊んだり食べたりするところだけど、道場とは違うと思う。」

「お寺では練習しないし。」

「厳しく怒られないしさ。」

という返事が返ってきました。

そうでしょうね。

彼らにとっての道場とは、道着を着て、厳しい練習をして、上達していくための場所ですもんね。

お寺って、道着も着ないし、厳しい練習もしませんし、子ども会では特に子どもたちをしかることもないので、道場だなんて思えなくて当然でしょう。

続けて話してみました。

「じゃあ、君たちにとって道場ってどんなところ?」

と聞いてみると、すかさず

「上手になるために練習するところに決まってるじゃん。」

「そうそう、強くなるための場所だよ。」

「そして、自分を磨くところだよ。」

なるほどね。

「自分を磨くところか」

と思いつつ、

「自分を磨くってどういうこと」

と聞いてみると

「うーん」

「・・・」

としばらく沈黙し考えこんでいましたが、

「先生方がそういうよ。

強くなるだけじゃなくて、自分を整える場なんだぞって。」

何と、今度は

「自分を整える」

という言葉まで出てきました。

「すごいな」

と思いつつ、さらに聞いてみました。

「自分を整えるってむずかしいけど、君らはどういうことだと思う?」

すると、今度はすぐに6年生の男の子が

「先生からは、どんなに強くなったからと言っても、相手を敬うこころを忘れちゃいけないんだって言われてるけど・・。」

相手を敬うという言葉が出てきたところで、ちょっと話を変えてみました。

「みんなはさ、どうしていつもお寺に来るの?」

「子ども会があるからだよ。

友達に会えるし。」

「子ども会はお菓子を食べられるし、楽しいし!」

何ともありがたいですね。

子ども会は楽しい、お寺は楽しいと言ってくれる子どもたちなんですね。

だからこそさらに聞いてみました。

「それだけ?お経やお話はどう?」

すると6年生が

「ごめーん、先生。

そんなに楽しくはないよ。

楽しくはないけど、大事なことを教えてもらっていると思ってるよ。

僕は頭が二つの鳥の話(共命の鳥・・いのちはつながりあっていることを教えてくれます)やシビ王の話(いのちに軽重はない、みんな尊いいのちであることを教えてくれます)が好きだよ。

僕ね、一人で生きてるんじゃないって、よく思うようになったよ。」

続いて4年生の弟が

「幼稚園の時からずっと、ごはんの時に

『みほとけと皆様のおかげにより』

って言ってるけど、その意味が分かってきた。

食べることは当たり前じゃないんだってことが今はよくわかるよ。」

よく聞いていてくれるのですね。

いのちのこと、いっぱい話してきてよかったなと思います。

「一人で生きているのではなくて、いろんないのちに助けられていることや、いのちが平等であることを知ることは、とても大切なことだよね。

それを知ることは自分を磨くこと、自分を整えることにならないかな?」

「うーん。

違うところもあるけど、同じところもあるかな。

相手を敬うこころを忘れちゃいけないっていつも聞くけど、仏さまもそう教えてくれてるしね。」

「じゃあ、仏様の教えを聞くお寺は道場といってもいいんじゃない?」

「といってもいいかもしれないけど・・。」

「それならば…」

ということで、

「一つみんなに謝らないといけないことがあるよ。

お寺は道場なんだけど

『聞法(もんぽう)の道場』

と言って、仏様の教えを聞いて、自分自身のこと、いのちのことを見つめ学んでいく場所だということなんだ。

この『聞法の』をおたよりでは入れることを忘れていたよ」

「ふーん、それならなんとなくわかるかな〜。」

子どもたちどうやら、お寺が道場(道をたずねて自己を知る場)であることを認めてくれたようです。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(10月後期)

では

「信心すなはち仏性」

とは、どういうことでしょうか。

仏性とは、法性であり法身です。

したがって、如来の心は本来無上仏であって、

「かたち」

はましません。

ところでこの仏性が、衆生の心に信心を生起せしめます。

そうしますと、

「法身」

には二種の相がなければなりません。

一は衆生にとって、いろもなく、心もおよばず、言葉では表現できない、一切を超越している法性としての法身です。

二はその衆生の心に信心生起せしめる、一如よりかたちを現した方便法身としての法身です。

その

「御すがた」

が、法蔵という菩薩の相を示して、不可思議の大誓願を起こし、光明無量・寿命無量の功徳を成就して、この世に出現されました。

この

「御かたち」

を、天親菩薩は

「十方無碍光如来」

と名づけられ、自らこの如来の浄土に生まれるべく、一心に帰命しておられます。

さて、この阿弥陀仏は、誓願の業因にむくいて成就した仏ですから、報身如来です。

「報といふはたねにむくいたる」

という意味だからです。

そこで天親菩薩の

「尽十方無碍光如来」

の意を受けて、親鸞聖人は

「極楽無為涅槃界」

の教示を、次のように結ばれます。

この報身より応化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光をはなたしめたまふゆへに尽十方無碍光仏とまうすひかりの御かたちにて、いろもましまさず、かたちもましまさず。

すなはち法性法身におなじくして、無明のやみをはらひ、悪業にさへられず、このゆへに無碍光仏とまうすなり。

無碍は有情の悪業煩悩にさへられずとなり。

しかれば阿弥陀仏は光明なり。

光明は智慧のかたちなりとしるべし。

「尽十方無碍光仏」

とはどのような仏でしょうか。

「尽十方」

とは、宇宙の全体、どのような微塵世界をも覆い尽くす、という意味です。

この仏は法性法身に同じですから、色もなく形もましません。

しかもこの仏は、無碍の光を放ちたもうています。

無碍とは、いかなる障害物にも邪魔されることはありませんし、無明の闇を除き一切の悪業に障碍されることもありません。

どのような悪業煩悩を持った有情であろうとも、その無明の心を問題にしないで闇を根本的に除き、光明で輝かします。

それが無碍光の徳であり、その光明が

「智慧のかたち」

です。

この光明が無量・無辺・無碍と呼ばれるのは、この仏の智慧の功徳性を示しています。