『他力』

「他力」

という言葉は、仏教用語なのですが、日常語として、特にスポーツや政治の場面でしばしば用いられます。

そこで、岩波国語辞典で

「他力」

の語を引きますと、

「他人の助力」

とあり、また

「他力本願のこと」

だとして、

「阿弥陀仏が一切の人を救おうとして立てた願いにたよって成仏すること。

比喩的に、他力にたよって物事をしようとすること」

だと述べ、

「自力」

という語を対応させています。

そして

「自力」

については、

「自分ひとりの力。

独力。

悟りをめざして自分の力にたよって修行すること」

と説いています。

この説示によりますと、自分の力に

「たよる」

のが自力であり、他の者の力に

「たよる」

のが他力となります。

いわば、ある大事を完成させる場合、そのことを自分の力で一生懸命努力することが

「自力」

であり、努力もしないでなまけていながら、いざとなれば他人の力を当てたよりにすることが

「他力」

だと解されます。

辞書にそのような意味が示されているということは、今日私たちが日常語として使っている

「他力」

は、このような意味として人々に理解され、用いられているということです。

ところで

「他力」

が仏教用語として使われる場合は、私たち一人ひとりが仏になるための行道を意味しています。

また、ここで確認しておきたいことは、仏教の行道において怠けることを勧める教えは存在しないということです。

そうしますと、この

「他力」

の語は、世間で使われている意味とは大きく異なっているといわなければなりません。

こごて

「自力」

ということを少し問題にしてみます。

たとえば、日本からアメリカまで太平洋を独力で泳いで渡ろうと決意した人がいるとします。

しかし、それがどれほど堅固な決意であったとしても、それを誉め称える人はおそらく誰もいないと思われます。

その結果は、力尽きて溺れて死ぬだけだからです。

ではこの場合、重要なことは何でしょうか。

極めて簡単なことで、自分にはその力がないと知ることであって、船とか飛行機などの力によらないかぎり、太平洋は横断し得ないことを認めることです。

自分で仏になるとは、まさしくこのようなことです。

仏の力によらないかぎり、だれ一人として仏果には至りえないのです。

ところが、悲しいことに人はその仏力を知り得ませんから、いたずらに迷いを積み重ねているのです。

まさに、この迷える衆生をただ一方的に救おうとしておられるのが、阿弥陀仏の本願力にほかなりません。

この阿弥陀仏の迷える衆生(阿弥陀仏から見て、他)を救う力を

「他力」

というのです。

釈尊は、私たち凡夫に阿弥陀仏の無限の大悲を説いて、阿弥陀仏の本願力に乗じて速やかに仏果に至る道を示さました。

そこで、阿弥陀仏が一切の衆生を救われる力を

「他力」

と呼ぶと同時に、この私を救われる阿弥陀仏の本願力を信じる心をまた

「他力」

というのです。

それは決して、怠け者が神仏の利益を求めて、必死にその力にしがみつこうとしている姿ではありません。

この

「力」

こそ、自力の極みだからです。

「他力」

とは、阿弥陀仏が阿弥陀仏自身から見て

「他」

である私を、私が願うと願わざるとにかかわらず、願うに先立ってこの私を迷いから救おうとされる阿弥陀仏の願いのはたらきです。

したがって、私たちは念仏の教えを聞き続けることを通して、阿弥陀仏の願いのはたらきに目覚めていくことが、他力の教えに生きることに重なっていくのだと言えます。