「ご縁の世界」(上旬) 自分勝手な物差しでお祈りしている

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私は、お願い事をする祈りのことを

「請求書の祈り」

と名付けたんです。

神さまや仏さまに請求書を突きつけて

「ああして下さい」

「こうして下さい」

と、そんな請求書のような祈りは良くない祈りなんだと…。

私たちが本当に仏さまに祈るときは、どう祈るかというと、

「有り難うございました」

という

「領収書の祈り」

これが正しい祈りなんです。

では、なぜ請求書の祈りが良くないのか、なんで領収書の祈りをするべきなのかということを、みなさんと考えてみたいと思います。

例えば、みなさんが

「どうか私を大学に合格させてください」

と、お祈りをしたとします。

これは

「請求書の祈り」

ですね。

しかし、今大学に入るためには、試験がある訳です。

そういう競争のある社会の中で、

「どうか大学に入れてください」

とお祈りすればどういうことになるか。

私が大学に合格すれば、確実に誰か一人大学に落ちる訳です。

だけど、試験を受けるなと言っている訳ではないんですよ。

そうすると、みなさんが仏さまに

「どうか私を合格させてください」

と祈ることは

「誰か落してください」

と祈っていることになるんです。

もしも、仏さまがその願いに応えて

「分かった。

お前の代わりに誰か落してやるからな」

と言われたとしたら、そんな仏さまを私たちは信じられるでしょうか。

希望する大学に、あるいは会社に入れた。

その時には、誰か一人入れなかった人がいるんです。

私たちは自分が入学、入社できたことを喜んでいますが、そのとき誰か入れなかった人がいるという事実。

そこに私たちは、目が行っていないんです。

自分一人さえ良ければいい、結局他人が落ちることを願っている訳です。

実はこの世の中、そういう意味で悲しい世界なんです。

私が合格すれば、誰かが落ちるという世の中なんです。

その世の中で悲しみを持って生きずに、自分だけが得をしようと思う心が浅ましすぎませんか。

仏さまは、そんな心でお祈りして、それが果たして宗教なのか。

ちょっと考えて頂きたい訳です。

私たち、何か競争に勝つことばっかり考えているんですね。

自分が勝てばいいんだ、でも自分が勝ったら相手は負けるんですね。

その負けたものの痛みを思いやらずに自分が勝つことばかり考えている。

「請求書の祈り」

というのは、自分を勝たせてくださいということです。

そんな祈り、仏さまが

「よし分った」

と言われるかどうか、ちょっと考えみてもお分かりになることだと思います。

仏さまは、みんなを救ってやりたいんですね。

一人を救って一人を落ちこぼれにする。

そんな仏さまじゃないんです。

勝った者も負けた者も、みんな救われる、それが本当の救いなんです。

ところが

「請求書の祈り」

というのは、勝った者しか救われないんです。

「請求書の祈り」

の良くない面は、もう一つある。

それは人間が勝手な物差しで物を測っているということです。

私たちは、合格できることが幸せで、落ちることが不幸せと思っています。

だけど、一年落っこちて一年遅れていれば、素晴らしい恋人に出会うかもしれない。

いったい、何が良いことなのか、人間には分からないんです。

それを私たちは勝手に、これが良いことでこっちが悪いことなんだ、合格できることが良いことで、不合格が悪いことなんだ、だから

「仏さま俺を通せ」

と自分勝手な物差しでお祈りをしてる訳ですね。