親鸞・登岳篇 黒白(こくびゃく)8月(3)

どこからともなく流れてくる尺八の音に、

(おや)というように、二人は眼を見あわせた。

性善房は、ここに姿の見えない菰僧の孤雲を思い出して、

「孤雲です……きっと水を飲みに行って、この下の谷で、何か考え出して、携えている尺八をすさびたくなったのでしょう」

といった。

範宴は、すぐ、

「はよう呼べ。――あの孤雲が多年たずねている寿童丸は、ここにいる。それを、孤雲はまだ知らぬのじゃ」

「そうだ、孤雲が来たら、どんなに喜ぶか知れません。呼んでやりましょう」

性善房はすこし離れた崖の際まで駈けて行って、

「オオーイ」

谷間をのぞいて呼んだ。

姿は青葉や山藤の花などで、見えないが、尺八の音は、糸の切れたように、やんだ。

孤雲はその時、ずっと下の渓流のふちに平たい巌(いわ)を選んで、羅漢(らかん)のように坐っていた。

ここへは、性善房が察したとおり、口が渇いたので、水を飲みに下りてきたのであるが、孔雀(くじゃく)の尾のような翠巒(すいらん)と翠巒の抱くしいんとして澄んだ静寂(しじま)のなかに立っていると、彼は、傷だらけな心をややしばし慈母のふところにでも休らいでいるように、いつまでも、去りがてな気持がして、そこの岩の上に、坐ってしまった。

何かは知らず、とめどもなく涙があふれてくる。

昼の雲が、静かな峡(かい)のあいだを、ふわりと漂っていた。

母も妻も子も、また家もない自分の境遇と似ている雲を、彼は、じっと見ていた。

誰にとも訴えようのない気持がやがて、尺八の歌口から、哀々と思いのかぎり、細い音を吹きだしたのであった。

その音のうちには、人生の儚(はか)なさだの、煩悩だの、愚痴(ぐち)だの、歎きだのが、纏綿(てんめん)とこぐらかっているように聞えた。

「おうーい」

誰か、上で呼ぶ声に、孤雲はその尺八の手を解いて、

「あ……。性善房どのだな」

行く先は、分かっているので、自分は遅れて後から追いつくつもりであったが、範宴たちの二人が自分を待っているとすれば、これは、済まないことをしたと思った。

にわかに、立ち上がって、

「おうーい」

と、下からも、峰の中腹を見上げて答えた。

そして、崖道を、攀(よ)じながら、元の所へのぼってゆくと、性善房はそこへ駈けてきて、

「孤雲どの。よろこばしいことがあるぞ」

「え?」

唐突なので、眼をしばたたいていると、性善房は、はや口に、そこの土牢の中にいる若い僧こそ、寿童丸であると告げて、

「わし達は一足先に無動寺へ参っておるから、ゆるりと、旧主にお目にかかって、よく、不心得を、諭してあげたがよい」

といい残して、立ち去った。

範宴と性善房の姿が、山蔭にかくれるまで、孤雲は、茫然(ぼうぜん)と見送っていた。

半信半疑なのである。

自分が多年探している寿童丸が、ついそこの土牢の中にいるなどとは、どうしても、信じられないことだった。

ふと見ると、なるほど、土牢の口が見える。

高札が立っている。

――彼は、怖々(こわごわ)と、やがてその前へ近づいて行った。