親鸞・去来篇1月(4)

小侍が走ってきて、

「あっ、青蓮院様でいらっしゃいますか」

と平伏した。

慈円は、もう橋廊下の半ばをこえながら、

「お客人(まろうど)ではあるまいな」

「はい、お内方(うちかた)ばかりでございます」

答えつつ、小侍は、腰を屈めながら慈円の前を、つつと抜けて、

「青蓮院様がお越し遊ばしました」

渡(わた)殿(どの)の奥へこう告げると、舞曲の楽が急にやんで、それから、華やかな女たちの笑い声だの、衣(きぬ)ずれの音などが、楚々(そそ)とみだれて、

「おう、青蓮院どのか」

月輪兼(かね)実(ざね)がもうそこに立っている。

兼(かね)実(ざね)は、手に横笛を持っていた。

それをながめて慈円が、

「おあそびか、いつも、賑(にぎ)わしいことのう」

と、微笑しながら、兼実や、侍たちに、伴(ともな)われてゆく。

漆(うるし)と、箔(はく)と、砂子(すなご)と、うんげん(、、、、)縁(べり)の畳と、すべてが、庶民階級の家には見馴れないものばかりで、焚(た)きにおう名木(めいぼく)のかおりが、豪奢(ごうしゃ)に鼻をむせさせてくるし、飼い鶯(うぐいす)の啼くねがどこかでしきりとする。

しかし、その十畳ほどなうんげん(、、、、)縁(べり)のたたみの間(ま)には、今はいって来た客と主(あるじ)のほか一人の人かげも見えないのである。

ただ、扇だの、鼓(つづみ)だの、絃(げん)だの、胡弓だの、また笙(しょう)のそばに濃(こ)むらさきの頭巾(ずきん)布(ぎ)れだの、仮面(めん)だのが、秩序なく取り落してあって、それらの在りどころに坐っていた人々は、風で持ってゆかれてしまったように消えうせていた。

「――なんじゃ、誰も見えんではないか」

慈円がいぶかると、兼実は、

「はははは――。お身が参られたので、恥かしがって、みんなかくれたのじゃ」

「なにも、かくれいでもよいに」

「きょうは、姫の誕生日とあって、何がなして遊ぼうぞと、舎人(とねり)の女房たちをかたろうて、管弦のまねごとしたり、猿楽などを道化(どうけ)ていたので、むずかしい僧門のお客と聞いて、あわてて皆失(う)せたらしい」

「女房たちは、どうして、僧を嫌うかのう」

「いや、僧が女房たちを、忌(い)むのでござろう。女人は禁戒のはずではないか」

「というて、同じ人ではないか」

「ははは。ただ、けむたい気がするのじゃろ」

「そうけむたがらずに、呼ばれい、呼ばれい、わしも共に笛吹こう」

慈円が、笛をふこうというと、唐織(からおり)の布(ぬの)を垂れた一方の几帳(きちょう)が揺れて、そのかげに、裳(もすそ)だけを重ね合って潜(ひそ)んでいた幾人もの女房たちが、こらえきれなくなったように、一人がくすりと洩らすと、それをはずみに、いちどに、

「ホ、ホ、ホ、ホ」

「ホホホ……」

と笑いくずれ、さらに、ききとしていちだんたかく笑った十三、四歳かと見えるひとりの姫が、几帳の横から、

「ああ、おかしや」

とお腹(なか)を抑えながら、まだ笑いやまないで姿を見せた。

つづいて、侍女(こしもと)だの、乳人(めのと)だのが、後から後からと、幾人もそこから出てきた。