親鸞思想の特徴

親鸞聖人(以下、宗祖)の思想をどのように理解するか。それは、その主著である「教行信証」の性格をどのように見るかによって左右されるといっても過言ではありません。この場合、種々の見方が成立することと思われますが、大別すれば次の二種の見方におさまるようです。一は伝統的な立場で、宗祖の信仰告白の書とする見方。二は、歴史的な背景を踏まえて批判書とする見方です。後者は、高弁の「摧邪輪」に見られる法然批判に対する解答の書、あるいは「承元の法難」に対する国家批判の書とする考えに基づくものです。確かに、これらの諸問題は、宗祖自身が直接かかわられた大問題である以上、そのことと全く無関係に「教行信証」が成立していることなどありえないことは自明のことです。

けれども「教行信証」の全体の流れから窺うに、それを以てそのまま製作の意図とすることには無理があるのではないでしょうか。なぜなら、国家批判の立場においては「証巻」「真仏土巻」は全く無関係な部分になってしまうからです。それ故、後者の見方はあくまでも「教行信証」の部分的な問題しかとらえていないといわざるを得ず、したがってこのような視点からは「教行信証」全体の構造は解明されませんし、宗祖の思想についても部分的な理解に終わるおそれがあります。このような意味で、「教行信証」は伝統的な信仰告白の書として受け止めて行くべきであり、批判書的見方で完結してしまうことのないように留意することが大切であると思われます。

ところで、なぜ「教行信証」を批判書とするような見方が成立したのでしょうか。それは今日の私たちの考え方が、基本的にそのような立場をとっているからです。つまり、人間生活の中で常に物事を対立的に見ようとする、いわゆる「生活論」にしか、関心を寄せることが出来なくなってしまっているからにほかなりません。

一般に、このような傾向を「世俗化」と呼んでいますが、それは長い間にわたって、主体的に受け止められ、歴史的にも承認されてきた、宗教の持つ普遍的な意味が、主体的にも社会的にも失われてゆくような状況を物語る言葉であり、換言すればこれまで聖なる領域として存在し得たものが一々否定されてゆき、それに代わって俗なる領域が深く浸透し拡大してゆくという、現代社会が呈示している状況をこの言葉は指摘しています。したがって「この世の中における私たちの幸福」、そのような世俗の「生活」の面にしか私たちは心をくだき得なくなってしまっているのです。それがこのようなとらえ方を生み出した理由だといえます。

一方、宗祖の思想の一つの特徴は「生活論」がほとんど見いだせない点にあります。「末灯鈔」や「御消息集」などでは二三、生活論に関する記述が見られなくもありませんが、むしろそれらはご門徒の求めに応じて答えられたもので例外に属し、宗祖自らが内より論じておられる著述では基本的に生活論は存在しないといえます。なぜなら宗祖の関心事は、私たちが一般に抱く日常生活の「善・悪の問題」、人生をいかに上手に生きるかという点にあったのではなく、常に真実の仏道を求め、生死を超えるという究極の問題のみにあったからです。ところが、既に述べたように、現代の私たちが抱いている関心事は日常の生活の場にしかありません。このために、生死を超える問題を求めている宗祖の思想を、生活の場でしか理解することが出来なくなってしまったのだといえます。「教行信証」を国家批判の書と見る立場など、まさしくその典型です。

これまでの宗祖論をみますと、一方ではその思想の純粋性を強調しつつ、世界平和の問題、国家権力との対応、差別との闘い、科学思想との対決等の事柄に宗祖の思想を重ねて、このような点を抜きにしては親鸞思想は語り得ないとする主張があります。これに対して他方では、教団をいかに発展させるかという立場から、むしろ宗祖の思想とわが国の習俗・習慣との調和を主張する流れも見られます。一見、両者とも宗祖の信心を深く求めようとしながら、根本的には世俗の面でしか宗祖の思想をとらえていないといわざるを得ません。

私たちが今日、この現実社会を生きるためには、その人がいかに真実信心の念仏者であったとしても、また念仏教団がいかに教団の純粋性を保とうとしても、世俗社会の生活面を抜きにして生存することは不可能に近いといえます。その意味では、真宗者の一人ひとりが今日の諸問題と真剣に深く関わることが大切であって、これらの問題を避けては現代社会を生き抜くことは出来ません。ただし、ここで私たちが特に注意しなければならないことは、これらの諸問題はあくまでも現代社会の特殊性から生じた、現代に生きる「人間」としての重要課題だということです。

したがって、私自身が現代に生きる人間である限り、たとえ私がいかなる人間であろうとも、仮に念仏の教えとは全く無関係な者であったとしても、人間共通の課題としてこれらの事柄は当然真剣に考えていかなくてはならないのです。したがって、これを換言すれば、これらの諸問題は真宗門徒(念仏者)の特殊性なのではなく、ましてや親鸞思想の中心問題ではないのです。重ねていうならば、親鸞思想の根本は、このような現代社会の諸問題に直接応えるものではありません。ただし、確認の意味で重ねて述べるならば、だからといって念仏者は現代の諸問題を無視せよと言っているのではないということです。人間としてこの世を生きている限り、現実社会との関わりなくして生きることは極めて困難です。その意味でも、私たち宗祖の教えに依って生きようとする者は、誰しも今日の重要課題に深い関心を持ち、その事柄と真剣に取り組んでいく必要があります。

けれども、その場合現代の諸問題に、信心の有無を直接からませるべきではないということをいいたいのです。例えば、具体的なこととして「平和問題」をスローガンに掲げたとします。そしてこの運動に賛成する者が真実の信心に生きる者だといった見方。あるいは、国家権力を示して、少なくとも宗祖の信心は庶民の側にあったというような解釈。これらは、その大前提をなしている発想そのものが、根本的に誤っていると見なければなりません。自明のことですが基本的に平和を愛さない者は人間として失格です。これは仏教徒であろうと、その他の宗教者であろうと同じです。

ところが、これが平和運動となると話は別です。そこには人間の恣意が混入するために、当然の帰結としてこの運動に対する賛成・反対の二者が生じます。まさに人間の行う「運動」である以上、それは「雑毒の善」でしかなく、もちろん阿弥陀仏の信心と重なることなどあり得ません。宗祖が当時の仏教の姿を「外儀は仏教の姿にて内心外道を帰敬せり」と悲嘆しておられますが、現代の仏教教団にあっても同様のことが見られます。

このような構造を見通すことが出来ないままに、世俗の問題をあたかも仏教の課題であるかのように錯覚していることに気づき得ないだけでなく、自らのあり方の「基本」に据えて「運動」として推進する人がいるのですが、その人の周辺では、念仏の教えを求めて集まってきた人々が、突然身に覚えのないことへの反省を求められたり、様々な意識改革を迫られたりする一方、念仏の教えそのものが説かれなかったり、み教えを聞くことを通して出遇えるであろう宗教的喜びを与えられないということに困惑し、大きな失望感に包まれています。

けれども、その運動に邁進する人は自らの正当性に固執するあまり視野競作に陥っているので、自らが引き起こしている悲劇的現象になかなか気づき得ないでいます。蓮如上人が「いくら自分が正しいと思っても、そのことにどこまでも固執すると、その過程において周囲の人々を傷つけ、困らせ、迷惑をかけて、最後には誰からもそのようなあり方は間違いであると否定される」というようなことを注意しておられますが、このような事象を見ると「なるほど!」と頷されることです。

さらに、これは国家権力に対する見方についても同様です。確かに、宗祖の思想は当時の庶民の心に強く響きました。だからといって直ちに宗祖の信心がこのことをもってそのまま庶民の側にあるというような論理は成り立ちません。なぜなら宗祖は「弥陀の本願には老少善悪の人を選ばれず」と述べておられるように、全ての人々に「弥陀廻向の信心を獲得せよ」と説かれたのであり、そこには権力の側にあった天皇・貴族と庶民とを分けてはおられないからです。

改めて、ここで言いたいのは「宗祖の信心の問題と現代社会の諸問題とは、直接的には重ならない」ということです。現代の諸問題は、どこまでも自分自身の知性・理性によって判断すれば良いのであって、その解決にいちいち宗祖の思想を仰ぎ求める必要はありません。

この場合、もし念仏者として問われることがあるとすれば、それは自分自身がいかなる信心の立場にたっているかということです。私の依って立つ場、究極的関心事が果たして宗祖の究極的関心事と同一の基盤にあるか否かが重要なのです。その人の心が、真の意味で宗祖の信心の構造と同一であるならば、もはやその人には宗祖の言葉をいちいち探し求める必要などありません。その人自身がどのような行動をとろうとも、そこには真実の信心が燦然と輝いているはずだからです。親鸞聖人は、世俗の生活論の基盤で信心を問題にされたのではありません。とすれば、私たちもまた生活論を離れて、親鸞聖人の信心の構造そのものをもっと深く見つめることが大切だと思われます。